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2020年 07月 27日
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by kfschinkel
| 2020-07-27 18:48
| その他大阪市
2015年 08月 24日
![]() 住吉大社を紀州街道沿い南に下った大阪市住之江区安立の街並み。 難読地名の安立(あんりゅう)とは宮中や後に徳川将軍家御典医を務めた半井家一族の名医で、従五位下の位を有する貴族であった半井安立軒元成(なからい・あんりゅうけん・もとなり)が桃山時代に居住していたことに因む。永らく住吉大社宮司家の津守氏の領地であった。 詳細は不明だが大阪と堺を結ぶ、かなり繁栄した郊外の街道町だったらしい。非常に立派な大阪式ファサードの町家が連続して残っている。 ![]() 関西の古い私鉄駅前でよく見られるタイプの住宅建築で、町家的意匠を有するが町家ではない。駅開業の明治40年以降の建築。恐らく大正-昭和初期の数寄屋建築だろう。 土蔵屋根の丸いくりぬきは大阪・摂津国の土蔵独特の意匠で、京都を含む他所では殆ど見られない。 ![]() ![]() ![]() 戦後建築かもしれない。 ![]() どう見ても近世-明治初期までの古い造りである。 市内の古い建物好きなら判ると思うが、この古さでこの規模の町家は大阪市内に殆ど現存しておらず、極めて希少な物である。 ![]() ![]() 大壁、本瓦葺、大阪出格子という極めて大阪色の強い意匠。間取りは農家風かもしれない。 まさに近世そのままである。 近世大阪を舞台とするドラマとか映画は是非安立でロケすべきだろう。 明治期に行政区分が大阪府となった富田林のような旧河内国や岸和田の様な旧和泉国では近代の町家では大阪の町家と近いものもあるが、やはり本来別物で各国独自の伝統様式があるのである。大阪都心から地理的にかなり離れた旧摂津国兵庫県伊丹の町家の方がはるかに大阪的なのは興味深い。 安立の町家意匠は非常に大阪色が強い。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 100%近世大阪風である。 なぜ大阪式意匠が重要かというと、本来こうした町家の規範、モデルであった大阪都心、船場・島之内の町家が北船場地区の一部を除いてほぼ壊滅してしまったからである。 こうした京都以上に素っ気ないシンプルなファサードこそが、近世日本経済の中枢を担った大阪商家の町家の特徴である。それは恐らくこの街の経済を主導していた商家が淀屋や天王寺屋、鴻池、加嶋屋の様な両替商であったことに由来する。現在で言う大銀行、証券会社、経営コンサルタントの本店建築である。ごちゃごちゃした装飾は非合理的でムダであり、威厳を損なう物と見做されたのだろう。 加えて天領であったため幕府の極端に厳しい建築規制が適応されていた。 上方の洗練、みたいなものもあったのかもしれない。 ![]() ![]() なぜ大阪出格子と呼ぶのかよく判らないが、間口一杯に商品を陳列し集客を促すような店売りに適さないタイプの格子である。 従って両替商とか仕舞屋のような事務所建築あるいは資産家の住宅建築として大阪都心に大量に設置されたために付いた名前ではないかと思うのだが如何に? ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 一寸法師ゆかりの地となっている。商店街のhpによれば近世安立には三栖屋(みすや)新右衛門等針商人が多く店を構え、一寸法師鬼退治の伝説をを針の宣伝に用いたとのこと。 ![]() 結構廃れている(笑)。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 個人商店よりも便利で品揃え豊富でいらん挨拶も気兼ねもしなくて済むので、ここで買い物をすませる人が多いということだろう。 個人的には全く悪いことではないと思われる。多分このスーパーが無ければこの商店街はもっと廃れていたはずなのだ。 ![]() ![]() 木製物干し台がある。 ![]() ![]() ![]() 恐らく100年近く変わることの無い風景である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() これより紀州街道を北へ上り住吉大社をめざす。 ![]() 名前の由来は大和川付け替え工事と新田開発による海岸線西方移動以前の江戸時代中期まで海辺の松原があったことによる。 天武天皇の皇子、長皇子の「霰打つ あられ松原 すみのえの 弟日おとめと 見れど飽かぬかも」のとして万葉集の和歌にも登場する。 ![]() ![]() ![]() こういうけったいなうだつは大阪府周辺独特である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() しかし建築様式から元々は住宅だったはずである。 ![]() ![]() 関東では極めて頻繁に見られるが、大阪では私が記憶する限りこれ一棟しか見たことが無い。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by kfschinkel
| 2015-08-24 16:46
| その他大阪市
2014年 08月 25日
![]() 大和川と奈良街道に面する河内国分は古代より首都奈良から大阪湾へ出る交通の要所であった。国分の由来は8世紀聖武天皇によって整備された河内国分寺にちなむ。 今日の河内国分本町の街並みを形成するに至ったのは大阪-奈良間を結ぶ輸送船、剣先船の拠点になったことによる。1639年国分村伊右衛門は幕府大坂町奉行所の認可を得て28艘の剣先船を就航した。 1644年には35艘となっている。剣先船の船籍別艘数は1646年の段階で大阪150艘、国分村35艘、石川村18艘、古市村8艘、計211艘である。その後大阪の幕府特権豪商、尼崎又右衛門の剣先船業参入(新剣先船)、大和川架け替えによる物資輸送増大により剣先船輸送ラインは膨張、1752年には全体で約300艘に及んだ。 国分村の剣先船は大阪-国分間の輸送を担当した。滝のある国分近郊・亀が瀬より上流→奈良までは、剣先船よりも小型の魚梁船に積み替えられた。 輸送内容は大阪→河内・大和行が干鰯、油粕などの肥料、河内・大和→大阪行が年貢米、河内木綿などの農産物であった。 国分は剣先船の荷揚げ港として問屋・宿場が集積し在郷町として繁栄した。奈良街道沿いにかつての繁栄の残滓が残る。 ![]() 個人的に小学校低学年まで住んでいた場所なのだが四半世紀近くほとんど風景が変わっていない。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 交通の要所だけあって建築様式にもさまざまな周辺都市の影響がみられる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 敷地の大きさもさることながら、二階が低く建築様式も古そうである。資料が無いが江戸後期はあるのではないか?重文級である。 ![]() ![]() ![]() 素晴らしい。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() この前の団地の公園に移動図書館の車が来るのを楽しみにしていたのだが、いまでも来るのだろうか? ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() のふもとにある神社。 奈良-河内の周辺はかつての首都圏だけあって古代遺跡が掃いて捨てるほどごろごろある。考古学ファンにはたまらない立地だろう。 ![]() 歴史は意外に新しく創建は鎌倉時代らしい。社宝の漢鏡3面が重文指定。 ![]() 泉州と違い屋根の上でぴょんぴょん跳ねまわったりはしない。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 剣先船就航から数十年が経過した1666-1685年に建造された。宗派は浄土真宗。 昔本堂内で文字通りの寺子屋があってお菓子目当てに行った記憶がある。夏祭りは墓地で肝試し大会があったがいまでもやっているのだろうか? ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 小学校低学年で北摂の住宅街へ引っ越したのだが所謂「住宅地のイメージ」の馬鹿らしさには辟易させられる。河内といえば馬鹿にされ北摂といえば高級住宅街扱いになるのだ。 北摂には古代遺跡も、近世初期の巨大な寺院建築も、重文級の町家も、自然科学的興味を掻き立てられる雑木林も歴史も何もない。要するに高尚な文化の香りに欠けている。別に北摂は好きだし、今でも住んでいる。しかし一体どこがどう河内国分と比べて「高級」なのか、まともな説明ができる者がいればしてもらいたいものだ。 ![]() かつて剣先船が行きかっていたのである。 ![]() ![]() ![]() 国分のある柏原市は近代以降有数のブドウ産地である。 ![]() ![]() 河内国分が水上交通輸送の要所としての役目を終えてからすでに100年経つが、旅籠の宿泊客はいるのだろうか・・・・・・・・・? ▲
by kfschinkel
| 2014-08-25 19:53
| 河内国(富田林市、東大阪市等)
2012年 07月 17日
![]() 二代新川喜内家(現 泉佐野ふるさと町屋館) 竣工年: 天明年間(18世紀末) 設計施工:不詳 近世、海上輸送の重要拠点であった泉佐野の街並み。 現在の街並みが築かれ、特異な商業都市になったのは近世に入ってからのことである。それまで商業都市ではなく、漁師町だったのだが日本海にまで遠洋漁業しているうちに海運業者に転業したのか廻船商人の一大集積地になったらしい。その成り立ちは町割りに見事に現れており、大阪市中のような城下町、富田林のような寺内町、枚方のような街道町等考えつく近世商業都市のどの例とも全然異なっている。道はぐちゃぐちゃであり、不整形な敷地に店が表に面していない大型の民家が集積しているのだ。不整形なのは自然発生的な漁村の特徴で(商業都市では、権力が明解な都市計画を行い商人を配置する)、民家もその起源が商家ではなく漁家なのだろう。 さらに異例なのがこの泉佐野が岸和田という別個の城下町を抱える小藩、岸和田藩領の辺縁集落であったにもかかわらず、岸和田藩の域をはるかに越え、近世日本を代表する豪商、食野家、唐金家が本拠を置いていたことである。特に食野次郎左衛門家は近世日本最大の廻船問屋で100隻近い舟を所有し、瀬戸内海・大阪間の米・肥料の運搬を営んだ。海運、土地収入で蓄積した富を元に金融界にも進出し岸和田藩、尾張徳川家、紀州徳川家など約30藩へ大名貸しを行った。融資のみならず食野家は岸和田藩札元として藩札発行の信用を与えた。結果岸和田藩の財政は完全に食野家の支配下に置かれた。幕末の日本長者番付では京都の越後屋(三井)、大阪の鴻池、加島屋(広岡)に並んで食野家がトップクラスに位置づけられている。 泉佐野と食野家の殷賑は海上輸送が近世日本経済においていかに重要な因子であったかを示している。 ![]() 無理無駄無意味なハコモノが哀れを誘う。泉佐野市はもうすぐ破綻するのだろうが、完全に自業自得である。 ![]() ![]() ![]() 江戸後期18世紀末の醤油問屋だがここも写真手前の出っ張りを除いて店が通りに面していない。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() かつての使用人住居兼倉庫。 ![]() ![]() ![]() 漁家の漁網乾し用の庭の血統を継承しているのかもしれない。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 現在は小学校になっている。 明治期に食野家は破綻、一時は食野家の広大な屋敷が小学校校舎だったが、現存せず。 ![]() ![]() ![]() ![]() このような巨大な土蔵が50棟近く海岸沿いに建ち並ぶ有様はさぞかし壮麗な光景だったのだろう。 ![]() ![]() 前から気になっていたのだがこれをを見て謎が解けた。軒下に梁が貫通しているのである。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ツシ二階建てから本三階建てへの過渡期的町家で、稀に京都市内などで見かける。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 写真には撮らなかったが、カフェー建築があった。 ▲
by kfschinkel
| 2012-07-17 03:12
| 和泉国(堺市、岸和田市等)
2012年 01月 16日
![]() 竣工年:近代以前 島之内・南船場は1945年の大阪大空襲によって完全に壊滅した。かつて存在したという閑静な商家街や花街の面影はどこにも無い。 しかし時折路地裏やビルの谷間から亡霊のように過去の残滓が立ち尽くしている。67年前、焼夷弾の猛火から商家の家財を守った壁厚40cmの防火建築・土蔵である。土蔵の歴史は古く中世にさかのぼるが、近世の大阪ほどその存在を際立たせた場所は無い。天下の台所の富の源泉は全国諸大名が中之島周辺に建造した土蔵造りの諸藩蔵屋敷だったのである。一方商家は三ッ蔵、五ッ蔵とその富の象徴として土蔵を建造した。大阪商人の土蔵への偏愛は近代に入っても止まなかったことは彼らの近代郊外住宅である阪神間や北摂、帝塚山、浜寺の古い屋敷の舟板塀から覗く巨大な土蔵に現れている。しかしより象徴的なのは大阪市立美術館(1936)だろう。軒蛇腹のデザインからこの記念碑的建造物が土蔵を模した意匠であることは明白である。 土蔵は無論ただのシンボルではなく、鉄筋コンクリート工法普及以前に地震・火災から家財を守るほとんど唯一の耐震防火建築であった。実際、土蔵以外の選択肢は無かったことが、関東大震災以降急速に江戸発祥の土蔵造り町家が京阪地方を含む全国に普及した理由である。石積み、あるいは煉瓦積みの明治期洋館は火には強いが、地震には耐えられず倒壊する。(煉瓦同士をボルトで固定した中之島図書館(1904)のような例外はあるが)そして大阪が焦土と化した第二次世界大戦の空爆が残忍な形で土蔵の耐火性能を証明したのだった。徹底した空爆はそこに住む者の富を、生活を、文化を、言語を、生命を、人間の記憶を、何もかも焼き尽くした。 今日一見全てが不毛で絶滅したかに見えるが、しかし土蔵だけが残存しているのである。かつて商人たちの誇りであった土蔵だけが。 ![]() 古写真を見れば1945年までの船場・島之内・上町・天満・西船場・堀江といった大阪中心街はだいたいこのような風景であったことが判る。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by kfschinkel
| 2012-01-16 00:55
| 島之内(心斎橋界隈)
2011年 12月 30日
![]() 松内毛織株式会社 設計施工:不詳 竣工年:主屋/大正12年(1923) 織屋棟/明治初年(1868)ごろ 堺に近い和泉国・大津市街に巨大な町家風建築が建ち並ぶ一角がある。これらの建造物は単なる商家ではない。京都・西陣で見られる織屋建の様な職工町家と、昭和初期、大英帝国最大の工業都市、マンチェスターを打ち負かした大阪市内の巨大紡績工場との中間に位置する特異な建造物、近世末ー近代のマニュファクチュア(工場制手工業)の遺産なのである。 近世末には真田紐生産で栄えたこの街は、近代に入って毛布製造へと主業種を転向した。国産毛布生産シェアの9割を占めて現在に至るがマイナーな業種には変わりなく、数社の大手を除いて半ば手工業的な職工10人以下の零細織屋が大部分を成していた。 典型的な泉大津の織屋は事務所兼社長住居とは別棟で後方に土蔵風の工場がある。(対してより規模の小さい西陣の織屋建では同じ棟の奥に織機を構える)職工は大阪・船場の大商家の様な住み込みではなく、通勤制で織屋は近辺に職工のための長屋を多数用意していた。 ファサードは町家風だが大味で壮大な全体構成、特異な漆喰装飾、凝った木の部材など、大阪のものとはかなり違う。これらの特徴は泉州の中心都市、堺の町家と共通している。堺には今日大阪市内で見られるような侘しい京都風の町家とは全く異なる、豪壮な町家の伝統がある。それらは安土桃山時代に頂点を極めた総ヒノキ造りの壮麗な建造物で、江戸幕府の小うるさい建築規制をかいくぐりその遺風を残したが、大部分が堺空襲で焼失した。 ![]() ![]() 南海イーグルスのお膝元だった南海沿線のくせに阪神タイガースの毛布が飾ってあるのが泣ける。 ![]() 茶道具の桐箱の紐や武具に用いられた木綿製の丈夫な紐である。 ![]() ![]() 泉大津は西洋建築がなぜか近代西洋建築はほとんど無い。 ![]() ![]() 明らかに近世の建築である。 ![]() 京都とか奈良の町家といってもそのほとんどが明治以降の近代建築で、こんな駒つなぎのあるような町家は実は珍しい。 ![]() しかし低層に土蔵にはあるまじき格子窓がある。これこそ真田紐や毛布を製造していた織屋棟(織物工場)なのだろう。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 以下竣工年は「大阪府の近代和風建築」(大阪府教育委員会 2000年)参照。 ![]() ![]() 明治中期竣工。 ![]() ![]() 資産管理会社(?)の塀があって門に近づくことはできない。今でも地元の地主階級として君臨しているのだろう。 ![]() こういう巨大織屋がそこらじゅうにある。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() やはり石材の王は花崗岩である。 ![]() ▲
by kfschinkel
| 2011-12-30 12:55
| 和泉国(堺市、岸和田市等)
2011年 10月 25日
![]() 竣工年代:近世-近代 京橋に近い城東区蒲生4丁目辺りは大阪都心から曹洞宗福聚山慈眼寺(大東市野崎)の参道ルート、野崎街道の街道筋。 近世、蒲生という地名通り蒲穂が名産だったという農村だった。しかし近代の工業化による人口増加に伴い大阪市街地に飲み込まれていった。 現状大阪市城東区は東京都中野区、豊島区に続く全国人口密度第3位の人口密集地帯で、農家・農家風町家・近代長屋が見られる。城東区蒲生4丁目界隈は古民家を活用した「がもよんにぎわいプロジェクト」なる地域振興プロジェクトが施行されている。 ![]() ![]() ![]() しかし恐らく、取って付けたようなツシ二階部分は増築で、昔は平屋の農家建築だったのだろう。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by kfschinkel
| 2011-10-25 19:12
| その他大阪市
2011年 10月 10日
![]() 竣工年:不詳 設計施工:不詳 御堂筋線の淀屋橋駅界隈というと今日ではオフィス街というイメージが強い。しかしこのかつて北船場と呼称された地区は近世の日本の金融・流通の中枢であり、同じく近世の呉服卸売業の中心であった京都の室町界隈と同様、あるいはそれ以上に上質な町家(職住一体の商家)の集積地区であったことは忘れられてはならない。今日、北船場の町家として適塾、小西儀助商店が国重文に指定されている。しかしその他に同時代・同水準の町家、十棟程度が現在も健在で、この北川金物店などはその典型である。 この町家は表屋造りの典型的な京阪上層町家の形式をとる。しかし黒漆喰の威厳ある大壁造りがいかにも浪華好み。 ![]() ![]() ちなみに船場の街割りは伏見のそれに準拠している。 (対して天満の街割りは京都式。) ▲
by kfschinkel
| 2011-10-10 23:31
| 船場(淀屋橋界隈)-町家建築
2011年 09月 26日
![]() 竣工年:昭和4年(1929) 設計施工:<棟梁>堀口長七 <手伝方>早川力松 日本建築の批評として最も著名なものは谷崎潤一郎の「陰影礼賛」である。これを精読すると、故郷を喪失し祖国の伝統世界から見捨てられた関東辺りの現代大衆がよくやる京都崇拝 (他の対象への崇拝同様実態が欠落しているから、流行が去れば彼らはまた別の何かを崇拝するのだろう。)とは異なり、客観的で実体験に基づく評論であることが判る。 そこで気になるのがこの卓越した審美眼と洞察力を持つ男が一体どんな家に住んでいたのかということだ。谷崎は引越しマニアで死ぬまでに40回以上も引越ししている。中でも家主の後藤家に追い出されるまで7年も住んだお気に入りの家、倚松庵が無料で公開されている。 倚松庵は大阪周辺の近代郊外住宅地でよく見かける典型的な下層中流階級向けの数寄屋建築貸家。近所の住吉・御影に残る上層中流階級(ブルジョワ)の豪邸を1/10に圧縮したような設計。洋館は廃され、代わりに洋風意匠の暖炉付属応接間が数寄屋建築内に組み込まれている。 印象的なのが採光が極めて優れている点である。天気の良い昼間に光が入らない部屋は存在しない。一見古めかしい外見をしているが近世には無かった当時最新の建築様式なのだろう。(谷崎の近世町家建築の採光に対する評価は春琴抄を参照。)そもそもこうした阪神間の郊外住宅は近代の鉄道網なしには存在しえない。 東京の旧市街、日本橋の薄暗い商家で生まれ、家族の希望であった大阪での丁稚奉公の進路を拒否し帝大に進学したこの小説家が最も愛した住まいは、数寄屋意匠の装飾に覆われた最新鋭の光あふれる近代住宅だった。「陰影礼賛」の内容も礼賛というよりは、むしろレクイエムに近い。 ![]() ![]() ![]() ![]() 小説「細雪」の蒔岡家は倚松庵に於ける彼女達をモデルにしたと言われている。 ![]() (写真をクリックすれば拡大します) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 壁の仕上げに注目。モルタルっぽい不細工な仕上げである。近代建築では見られない工法で、谷崎の美意識に適合するとは絶対に考えられない手法である。 移築の際、神戸市が金をけちってこんな壁になってしまったのだろう。 写真に撮らなかったが天井板も最悪な材木である。 もっとも芦屋のヨドコウ迎賓館(1924)の現状内壁のほうが更に酷いが。 ![]() ![]() ![]() 増築した離れに書斎があったのである。(移築されず) ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 高度成長期に流行った偽物とは違う本物の暖炉である。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() おまけー<旅館ぎおん森庄(旧 喜志元)> ![]() 谷崎ゆかりの「陰影礼賛」空間を髣髴とさせる、京都の旅館、ぎおん森庄。 明治期に建てられた大塀造の町家で谷崎が京都の定宿にしていた旅館「喜志元」の遺構である。一時期廃墟と化していたが、近年現当主によって往時そのままに旅館として再生された。 ![]() アートイベントは普段入れない近代建築の内部を見学できる大きなチャンスとなりえる。 ![]() ![]() ![]() 間取りからしてこれは恐らく旅館として建った建物ではない。仕舞屋だったのだろう。 ![]() 気泡が入った波打ちの色ガラスなので明治期オリジナルの物だろう。 ![]() 近世以来この街は豪奢な手工芸生産で栄えてきたのである。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() おそらく大阪欄間。 ![]() ![]() 本建築中最も格調高い部屋で、二階重視は近世ではありえない近代町家の特徴である。 ![]() ![]() ![]() ▲
by kfschinkel
| 2011-09-26 01:33
| 阪神間・北摂
2011年 08月 22日
![]() 近世ー近代(17-20世紀) 大阪で最も重要な寺社といえば四天王寺と住吉大社が挙げられる。この2つはいずれも古代-近世の首都である奈良・京都の外港・大阪湾を祀る海の寺社としての性格を有している。 千年以上の歴史を誇る住吉大社界隈は歴史的には、近世-今日の大阪都心である船場や島之内をはるかに凌ぐ旧市街だけあって見ごたえ有る街並みが見られる。 界隈を構成する古建築は 1.寺社建築 2.農家建築 3.町家建築 4.近代住宅建築 である。 寺社建築は摂津国一宮たる住吉大社の影響力が圧倒的である。 農家建築は塀にツシ二階虫籠窓の主屋を有する。つまり他の京阪郊外同様、武家邸宅ではなく近世町家建築の意匠に強い影響を受けている。 町家建築のファサードはツシ二階虫籠窓大壁大阪出格子の大阪・船場界隈の町家意匠に従属している。平面プランは外部からは判らないが、京阪都心の町家ではなく田の字型の農家の間取りを継承している可能性は高いだろう。 近代住宅建築は阪神間や北摂同様、洋館の付属する豪奢な数寄屋建築で、帝塚山ー浜寺に至る高級住宅街ラインの域内にあると言える。 総じてこの街は典型的な大阪近郊旧市街のなのだろう。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() かつては高塀に囲まれていたのだろうが塀が撤去されている。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 住吉の豪家のある種のパターンが見て取れる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by kfschinkel
| 2011-08-22 02:42
| 天王寺
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