
琴ノ浦 温山荘園(新田長次郎琴乃浦別邸)
竣工年: 大正5年(1916)
設計: 木子七郎
明治21年大阪で日本初の動力伝動用革ベルトを開発し、工業用ベルト生産によって一代で巨万の富を築き上げた近代日本屈指の富豪、新田長次郎の広大な別邸。本館設計は新田の娘婿で建築顧問の木子七郎。木子は日本最初期の壁式RC造建築を手がけたことで知られる大阪の近代建築家。欄間彫刻は高村光雲の弟子で、アール・ヌーヴォー室内装飾で著名な住友建築部出身の彫刻家、相原雲楽。作庭指導は武者小路千家家元名代三代木津宗泉。
自身科学技術者でもあった新田長次郎が設計に深く関与したらしい温山荘にはエンジニアらしいギミックに溢れている。RC造の基礎、新田の会社が開発した日本最初のベニヤ板で作られた玄関棟天井、半地下の本館ダンスホール、アールデコ欄間、伴待部屋の防犯用隠し部屋、人口岩の庭石、岩山を刳り貫いたトンネルとそれに続くプライベートビーチ、海水を池に引き入れボラが泳ぐ潮入池泉回遊庭園などである。
海と山の起伏に富む敷地は現状18,000坪なのだが、かつては周辺領域を含む50,000坪の広大さであった。個人庭園としては日本最大であり、恐らく近畿圏に残る近代邸宅としては最大規模である。
総じて大工棟梁ではなく建築家によってデザインされた近世以来の歴史的様式と、最新の科学技術、規模の壮大さの3点が融合した近代邸宅の特徴がよく現れている。
この別荘は新田の郷里、松山藩旧藩主、久松定謨伯爵来阪の際の迎賓館兼新田家別荘として建造された。久松伯爵の他に伏見宮文秀女王、桂太郎、清浦金吾、東郷平八郎などの皇族、華族、VIPが滞在した。東郷平八郎は「温山荘」命名者であり、海軍元帥らしくこの海に面した迎賓館を特に好んだ。当時の貴賓社交の迎賓館とは数日滞在などという代物ではなく、彼らの中には4か月に及ぶ滞在もあったという。
死後彼が新田が創立した株式会社ニッタ関連四社が設立した財団法人によって維持管理されている。ちなみに新田の富の源泉は紡績工場用の動力伝動革ベルトとその派生品であったが、現在の主力商品は自動車部品やスマホの画面フィルム、銀行ATMの札数え用ゴムベルトなどとのこと。
国指定重要文化財。

和歌山の数少ない著名観光名所、和歌山マリーナシティ。温山荘のちょっと先にある。
というかここへ行くバスの途中でたまたま温山荘を発見したのである

マグロ解体ショー。
人は多かったが思ったほど特色はなく、普通の観光地であった。

温山荘園入口。
庭園入園料は400円なのだが100円プラスで元ニッタ社員の気さくな園長ガイド付で本館が内部公開されているので、絶対に100円払った方が良い。
受付の人に滅茶苦茶珍しがられ、どこから来たのかとか、なんで知っているのかとか尋ねられたのだが、どんだけ入場者が少ないのだろうか?日曜日であるにもかかわらず完全貸切状態であった。少なくとも和歌山マリーナシティよりは圧倒的に独創的で面白いと思うが・・・・
私も趣味の問題上大概全国色々な近代邸宅建築には足を運んでいるが、質においても規模においてもギミックにおいてもここまでの代物はまずお目にかかることは絶対にないと断言できる。

温山荘正門。
石ではなくコンクリート建築である。大正初期当時まだ新素材であったコンクリートは意図的に用いたものだろう。

アプローチ。

本館玄関。

玄関横にある。伴待部屋。
人力車車夫などが休憩する棟とのこと。

伴待部屋内部。右のでっぱりには実は仕掛けがある。

隠し扉を開けると賓客がテロリストから隠れるための隠し部屋となっている。
この隠し部屋は近年修復されるまで忘れられていたとのこと。

本館式台玄関。

玄関敷石は当時の新素材人造石。
人造石と聞くと天然石の代用品のようだが、大正時代当時は非常に珍しかったのだろう。近代産業資本家の別荘に相応しく、この本館には近世には無かった様々な当時最新の人口素材が登場する。

玄関棟内部。
ここにも新素材が用いられている。どこかというと・・・・

天井板である。これはただの一枚板なのではなく、新田の北海道の工場で開発製造していた日本最初のべニヤ板なのである。今の合板ベニヤと異なり、当時アメリカから技術導入されたベニヤ板とは無垢の板を革の膠で貼り合わせた非常に高級な素材であったのだそうだ。今でもこのタイプのベニヤ板がニッタ社によって高級車の木目ダッシュボード用に少量生産されているのだという。新田の会社は大正期工業用革ベルトの会社であった。膠は革産業の派生品である。
多分この玄関は自社製ベニヤ板を貴賓にPRする場でもあったのだろう。なぜなら天井板とは数寄屋建築においては最高のアピールポイントの一つなのである。

玄関間窓より庭を望む。

昭和十年代当時の図面。
今日でも旧個人邸宅としては日本最大の日本庭園なのだが、竣工当時の敷地は今の倍以上の50,000坪という恐るべき代物であったことが判る。隣接の県立自然博物館その他周辺領域があっさり含まれているのである。
手前のぬいぐるみは2015紀の国わかやま国体のマスコットキャラクター、紀州犬「きいちゃん」。

床の間のある和風洋間。温山荘には洋館は無い。

同上。

極めて斬新なアールデコ欄間。

アールデコ欄間と調和がとられた棚。

テーブルセットは東郷元帥などが座った当時のままであるとのこと。

床の間とテーブル。
意外にマッチしている。
右の紳士が園長。

ろうそくと呼ばれる床柱仕上げ。
素材は恐らく北山杉のしぼり丸太であろう。
このクラスの数寄屋建築には最高の素材がふんだんに用いられる。

何の木かは忘れたが、非常に貴重な木材が使用された床板。

洋間より眺める庭園。

同上。

新田家の家族にゆかりのある洋間襖絵。

有線七宝製の襖金具。いかにも明治-大正的である。当時七宝細工は重要な輸出品であった。

当時のままの西洋家具と来賓の写真。

廊下にある1階(半地下階)入口。一見平屋純和風建築に見えるこの本館は実は下に階があり、台所やダンスホール、ビリヤード場などがあるのである。新田氏はこういった仕掛けが大好きだったのだろう。

温山荘のメインホール、広間。巨大な空間である。

同上。

同上。

いかにも近代らしい数寄屋照明。

欄間は中之島図書館や住友家須磨別邸などの内装を手がけた室内装飾家、相原雲楽の作品である。

アップ。いかにも高村光雲の弟子らしい明治っぽい作風。

広間の床の間。
まるで演舞場の様な広さである。
採光の素晴らしさにも注目。

巨大な床の間。

採光のとれた廊下というより縁側。

同上。

縁側より広大な庭を望む。

同上。
この様な光景は大阪市内や阪神間ではまず望めない。

広間。

広さの割に部屋数はかなり少ない。
この別荘にはこちゃこちゃした小部屋よりも広い空間の方がより深い印象をあたえるからだろう。
侍従部屋の様な補助的な部屋が本館ではなく別棟にあったのかもしれない。

誰か忘れたが首相経験者か高級将校の扁額。
この様な扁額が温山荘にはたくさんある。

庭より本館を望む。

巨大な庭。
近世にはこの庭は紀州徳川藩の養魚場であった。
現在も池の水は汽水であり、泳いでいる魚は鯉ではなくボラなのである。
しょっちゅうボラが池を飛び跳ねている。

分かりにくいがエサをもらえると思ったのか寄ってきたボラ。

旧個人邸宅の日本庭園としては現存日本最大である。

庭園の東屋。

同上。
設計指導は庭園同様武者小路千家家元名代三代木津宗泉。

内部は当然ながら茶室となっている。織部風のかなり大きな茶室である。

大正初期には珍しかったコンクリートを用いた塀。
本館設計の木子七郎はコンクリート建築の第一人者であった。

庭園。

とにかく巨大である。

同上。
明治期の大名庭園同様芝生がある。
維持費は年間4000万円程度でやりくりしているとのこと。自治体がカチカチにやるより遥かに味わい深い。
もう和歌山マリーナシティではなくここでマグロ解体ショーをやればいいのではないか?そっちのほうが面白い。

海側の風景。
新日鉄住金の工場が物凄く邪魔である。こういうゴミみたいな工場は景観規制で排除すべきである。

反対側の庭園。

同上。

西日本最大という巨大な緑の石橋。

橋を渡るとトンネルが現れる。

トンネルは磯の天然岩盤を刳り貫いて作られている。

反対側出口。

トンネルの向こう側は新田家のプライベートビーチとなっているのである。
素晴らしい。

トンネルのある岩盤に張り付いているのが、温山荘で最も古い大正2年竣工の浜座敷。
醜悪な埋め立て前には海に突き出していた望楼である。
こんな田舎に埋め立てなどやって一体誰に利益があるのだろうか?出来た工場も大して経済効果などあるとも思えぬ貧弱狭隘な代物である。この種の役所が計画する画一的な海岸開発は景観と環境に対する犯罪であり、公金の無駄遣い以外の何物でもない。

庭園より本館へ戻る。
ここにも偉い人の扁額。

本館。
鉄筋コンクリート造の地階基礎があるのが判るだろう。設計者木子は当時RC造の第一人者であった。

同上。

RC造階下にある旧ダンスホール。現状殺風景なのだが是非復元してもらいたい。

ダンスホールに置かれた大正期と思わしき古いテーブル。

段差を生かした秘密通路の様なものもある。
非常に面白いではないか。

同上。

庭園には古そうな灯篭が多いが、これは幕末-近代の物だろう。
当時流行した煎茶道具に加えて、ハートマークのような透かしが入っている。
これはハートマークではなく葵の葉ではないかと思われる。和歌山は紀州徳川家の領地であった。

マリア灯篭とある。古田織部が考案したという灯篭スタイル。
一般に隠れキリシタン由来とされるのは胡散臭いものが多く格子があれば十字架、観音とか母子像があればマリア観音ということにされてしまうのである。

石でできたタヌキ。潮風によって風化して首が取れているのもあった。

むくりが美しい本館屋根。

温山荘創設者、新田長次郎。
現状中堅素材メーカーであるニッタからは想像もできないが、住友、鴻池、藤田、野村に次ぐ近代大阪屈指の大富豪であった。当時の長者番付では武田や伊藤忠、サントリーの創業家よりも上位にランキングされている。その背景には大英帝国マンチェスターを凌ぎ世界最大の紡績産業の中心地となった近代大阪の紡績業の殷賑があった。新田は紡績機械の工業用ベルトを独占的に生産していたのである。

本館工事中の写真。
のどかな海岸に突如出現した巨大建造物に当時の人々はド肝を抜かれたことだろう。このような巨大なブルジョワの別荘は後にも先にも日本に建てられることは無かったのである。
<温山荘近隣市街散策>

温山荘向かいの民家。ここも昔は温山荘の敷地ではないかと思われるが。

旧市街が近くにあるようなので散策することにした。

歩いて10分くらいの所にある旧市街の町家。この辺りは昔漆器が名物でここも漆器問屋である。

近代洋風建築。郵便局か工場の事務所なのか?

手作りのアーケードのある商店街(?)。

同上。

商売やる気のない果物屋(笑)。

さらに先へ進むと漆喰塗の立派な町家がいくつかあったらしいのだが、事前に何も調べていなかったのでそのまま和歌山市内へ退散してしまった。
<和歌山市街散策>

和歌山市街は米軍の爆撃によって壊滅し、古い建造物が余り残っていない。これは大正-昭和初期と思われる希少な町家の遺構。袖うだつの形状は大阪と似ているが、カクカクとした屋根や短い軒の出が和歌山的である。

銅版張りの呉服商。これも和歌山らしい特徴がみられる。このような古い町家は残念ながら中心街には殆ど残っていない。

旧花街の恐らく遊郭建築。

和歌山市街では珍しい木造建築。

戦災に耐えた花街の寺院。

旧歓楽街の巨大なスナックのビル。
このような巨大風俗店ビルは大阪ミナミとか東京歌舞伎町にも無いだろう。しかも人の気配が全然ない。
かつて和歌山市は住友金属の企業城下町であり巨大歓楽街が形成されたのだが、工場規模縮小によって衰退してしまったのである。蓄積された資本を元手にこんなビルを建ててしまったのだろうが、ハコモノを建てても客は来なかったという顛末である。
こんなビルが和歌山市の旧歓楽街には大量にあるのである。ある意味日本の繁華街の黙示録的スポットと言えるだろう。

同上。

イカす看板。

大阪新世界以外で見たことが無かった、スマートボールの店。

戦災で焼け残った耐火建築、土蔵。

これより歓楽街から商店街へ入る。

和歌山の銀座。

懐かしい雰囲気のおもちゃ屋さん。

激しい品揃えの洋品店。

かつて紀州の豪商が軒を連ねたであろう本町通り。本町とは本町人のための通りである。

長谷部竹腰建築事務所の後進、日建設計の手になる戦後建築の紀陽銀行本店。
レリーフがいかにもである。

バブル期に建造された地元老舗の旧丸正百貨店。ここはこの建造物の借金が原因で破綻している。
現在はショッピングセンター。

旧丸正百貨店ショッピングセンターの鮮魚コーナー。他地域では高級料亭とか割烹でしか絶対お目にかかることのできない地元の新鮮な珍しい水産物が普通に平然と売られているのにはびっくりした。
和歌山がいつの日か観光産業で脚光を浴びるとすれば、恐らく水産物がKey Factor for Successとなるだろう。これらを調理する優秀な日本料理人は大阪や京都から引き抜けばよいのである。今は寂れているが相当ポテンシャルは高いと思われる。

ぶらくり商店街アーケード。

紀州徳川家の和歌山城。

南海和歌山駅前の空襲に焼け残った土蔵。
たまには遠出も良いものである。