
竣工年:不詳
設計施工:不詳
大阪府庁舎の背面にある謎のモダニズム官庁建築。
門柱は大阪府知事公館と共通の意匠。
今は亡き朝日ビルディングを思わせる尖塔が付属する。










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2020年 06月 25日
![]() 竣工年:不詳 設計施工:不詳 大阪府庁舎の背面にある謎のモダニズム官庁建築。 門柱は大阪府知事公館と共通の意匠。 今は亡き朝日ビルディングを思わせる尖塔が付属する。 意匠や立地からして恐らく戦前-戦後期に有力な建築家が設計したのであろう。 ![]() 門柱、塀は明らかに戦前の建築。 エントランスは微妙だが・・・・ ![]() アールデコ特有の尖塔がある。 ![]() 水平ラインが強調された窓割。 石造やレンガ造の組積式構造(地震国日本の西洋風建築では意外に無い)では不可能な窓割で(構造上縦長窓にならざるを得ない) 1920-30年代、RC造モダニズム建築に多用された意匠。 ![]() 同上。 ![]() 設計者の鋭利な感性が表れた、異常に斬新な小窓と外階段。 3千年続いた因習的な欧州歴史的様式を撲滅するという気概や緊張感の様な物が戦後の建築家から消えてしまったために、 戦後のモダニズム建築は惰性とマンネリで全く面白くないと感じるのは私だけだろうか? ![]() 同上。 ![]() この辺りは戦後っぽいが・・・・ ![]() 植え込みの老木が歴史を語る。 こういう風景はすっかり消えてしまった。 ![]() 同上。 ![]() 大阪府庁背面の建造物。 ▲
by kfschinkel
| 2020-06-25 17:42
| 上町(大阪城界隈)
2015年 05月 11日
![]() <本館> 竣工年:昭和4年(1929)(一期) 設計:不詳 <木造実験工場> 竣工年:昭和6年(1931) 設計施工:不詳 関西大学天六校舎亡き今、大阪府下に残る希少な旧制大学の遺構。現在は同時期隣に設置された大阪医科大学が使用している。 京都帝国大学の初めての付属研究所。1928年新京阪鉄道(現 阪急京都本線)高槻町駅開業の一年後に竣工された。大学本部から離れた郊外の研究所に交通網は必須といえる。この研究所もまた私鉄沿線開発と共に誕生したのである。 大阪は京大の起源である、政府の化学教育機関・舎密局が明治元年設立されたこともあり地縁が深い。 建築様式はモダニズム/表現主義。 横の旧木造実験工場では1939年ビニロンが世界で二番目の合成繊維として開発された。開発者の一人、李升基助教授は治安維持法で逮捕後、北朝鮮へ渡り核兵器開発を指揮、寧辺核施設初代所長に就任している。 ![]() 阪急京都線からも見える目立つ建物。 ![]() 同上。 ![]() 残念ながら管理されておらずネットがかけられている。 ![]() しかし帝国大学の研究所だけあって質感・意匠性は高い。 現状打ちっぱなしのモダニズム建築。 ![]() 無人の廊下。 かっこよすぎる。 ![]() 教室内。現状書類が保管されている。 ![]() ドイツ表現主義っぽいアーチのある階段室。 ![]() 同上 ![]() 同上 ![]() 同上 ![]() 玄関ポーチ。 ![]() 表札は中央研究館とある。京大時代のものかもしれない。 大阪医大に払い下げられた年代はネットでは不明。 ![]() カッコいい大階段。現代建築にはこういう建物を見せる工夫が足りない。 ![]() 正面ファサード。 ![]() 半地下階は電気が付いていた。事務所としても使用されているようだ。 ![]() 同上。 ![]() ボイラー煙突? ![]() マッドサイエンティストが出てきそうな存在感のあるファサード。 最高によい雰囲気である。映画やテレビのロケなんかにも最上だろう。 現状私学でもあるし、もっと積極的に活用してもらいたいものである。 ![]() 同上。 ![]() 同上。 手前の部分は微妙に意匠が異なり、恐らく戦前に増築された物であろう。 ![]() ポーチと反対側の階段。 <木造実験工場> ![]() 大阪医大のホームページによれば大正期の建造物とのことだが 恐らく要覧に記載のある昭和6年造木造実験工場ではないかと思われる、木造建造物。 ![]() 同上。 ![]() いかにも昭和初期っぽいモダニズム建築の影響を受けた出窓。 同時期の大阪・曽根崎変電所(1936)に類似の意匠がある。 ![]() ビニロン開発記念碑。ナイロンに続く世界で二番目の合成繊維である。 結構凄い発明ではないかと思うが・・・・ ![]() 戦前から変らないと思われる前庭。 後に犯罪国家で核兵器開発を指揮することになる、李升基博士もこの眺めを見ていたのであろうか? ![]() 京都帝国大学化学研究所旧正門。 ![]() 旧正門向かいには同時期、昭和初期築と思わしき近代住宅街があった。 ▲
by kfschinkel
| 2015-05-11 19:20
| 阪神間・北摂
2014年 09月 13日
![]() 「村野藤吾 やわらかな建築とインテリア」が大阪歴史博物館にて平成26年9月3日-10月13日開催されています。 よくある総花的な展示とは異なり日本近代建築の建築家一人に絞った特別展というのはめったにありません。村野藤吾の作品はあのメルヒェンチックな曲線とか高度成長期っぽい雰囲気が個人的には苦手な部類に入るのですが、非常に楽しめました。展示物には本人あるいはドラフトマン手書きの設計図や村野本人がデザインした家具(戦前までは建築のみならず照明から調度品一式に至るまで全て建築家がデザインするのが一般的)など盛り沢山の内容となっております。 なかなか鋭い人物だったらしく印象深い語録を抜粋すると・・・ -自らが本拠地を置いた大阪の風土について 「船場、島之内の人のいい生活というものは立ち居振るまいが非常にもの静かで、それでいて、そういううところに丸善が出入りするというんですから、町家の生活のなかに学問や新しい傾向に興味を持つというところは、非常に東京と違うわけです。文化の深さといいますか、もの静かで、しぶい生活、高い声で話をしないような日常の生活をしているわけですね。こんな生活なのに人はみな新しい小説を読むというような、そういう傾向がありました。(中略)東京のような直輸入の文化ではなくて、自分自身の持っている深さというものがあるわけですね。これに私、まず学生時代に心ひかれたわけです。 しかし大阪に来ることができたのは、渡邊事務所の渡辺節先生から招かれたのがチャンスです」 (展示会図録p.10より) -近代大阪の施主の建築に対する扱い 「非常にクールに無差別平等に残酷」 (展示会図録p.125より) -歴史的様式が村野建築へ与えた影響 「わたしは学生時代はなかなか反抗的で、(中略)様式的な問題は少しもやらないで、当時日本へも伝わってきた新しい思潮のドイツのセセッションに非常に共鳴し、そればかりやっていて先生からにらまれていたのですが、学校を出まして渡辺節先生のところへきて(中略)様式風なものでないと世の中には通らないからそれをやれということで、初めはいやいやながらやっていましたけれども、やっていくうちに興味が出てきたのです。様式のなかに隠されていた陰影だとか線だとか、それからプロポーションだとか、そういうものの美しさに興味を持ち始めたのです。様式だけから出発した人は今(1966年)はほとんど枯れてしまいましたね。やはり学生時代に反抗し、その後様式を学び、また現代に帰ってきたということが、私には非常にプラスになっていると思います」 (展示会図録p.129より) 村野との対比を通じて今日非常に人気の高い近代建築家にして村野の先生の渡辺節の建築思想も垣間見ることができます。 多分会場撮影禁止なので図録をどうぞ↓ ![]() ![]() ![]() 一人の建築家の肉声が伝わってくる展示は全近代建築ファン必見です。
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by kfschinkel
| 2014-09-13 18:45
| ・・・<お知らせ>・・・
2013年 12月 05日
![]() 製作:昭和13年(1938) 1938年、三代目大阪駅建造に伴い製作された鉄骨模型。当初の予定では地下一階地上5階建、いかにも国鉄らしい垢抜けないモダニズム建築として設計された。上層階は幻の1940年東京オリンピックに合わせて鉄道ホテルとして供用される予定だった。 しかし五階の一部まで鉄骨が組みあがっていたにもかかわらず、大蔵省の指導によって二階までで工事はストップし上階の鉄骨は剥き出しで放置された。当時の大阪鉄道局長は大阪毎日新聞の取材に対し「見栄や、体裁をつくっている場合ではない」「三階以上は当分鉄骨のまま放っておく」と述べた。要するに市民に鉄骨剥き出しの異常な駅舎の姿を街のど真ん中で見せつけるプロパガンダ建築となったのだった。1941年日本は第二次世界大戦に参戦、剥き出しの鉄骨は1943年陸軍へ供出されプロパガンダ建築としての役目を終えた。戦後も完成を見ることなく1979年破壊された。跡地にはアクティ大阪が建つ。 鉄骨模型は現在弁天町高架下の交通科学博物館に展示されているがこの博物館も破壊され、京都に移転予定。 参考図書:「夢と魅惑の全体主義」井上章一(2006) ![]() 一階がコンコースと駅務室、ホテル玄関、三階がホテルと食堂、四-五階がホテル客室となっている。 ![]() ![]() ![]() ![]() <交通科学博物館内部> ![]() 小さい時によく連れて行ってもらった博物館だが20年近く経っても展示物が余り変わっていない。 ![]() 制作当時未来の乗り物だったはずが、デザインがもうすでにレトロ化していて笑える。 ![]() ![]() ![]() ![]() 運転手ごっこをしていたあの頃、屑のような自分の未来を予想だにしていなかっただろう。 ![]() ![]() ![]() 原始的なコンピューターである。 ![]() ![]() ![]() 阪急電車のようなダークカラーである。 ビスがカッコイイ。 ![]() 建築においても日本人の洋風デザインがまともになったのはこの時代である。明治建築は外人が設計したもの以外は全部へたくそとしか言いようが無い。 ![]() ![]() ![]() ![]() なぜこんな物がホームにあるかというと戦前国鉄客車を牽引していたのが電車ではなく汽車で、冷暖房も付いていなかった。トンネルに入ると開けた窓から煤が入り顔が黒くなったからその煤を洗うための洗面器である。 ![]() 当時鉄道省は電車ではなく汽車に未来があると考えていた。よって関西の私鉄と比べて電化が遅れ私鉄との競争に敗れた。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() さらに小さい。 ![]() お子様ランチのトレイになっていたやつである。 多分この車両は全国でも希少な物だったと思う。 ![]() ![]() 金色の天女(?)がぶらさがっていた時のあれである。まさか保存されていたとは・・・・・ ![]() 日本のデザインはこの時代がピークだったのでは?、と疑わずにいられない迫力ある美しい作品。 ![]() 砲弾型ライトがシビレる。 ![]() 機能と美しさが融合している。 ![]() ![]() ![]() オープン時新車だったものがヴィンテージ化している。 ![]() ![]() ![]() ![]() この大きさでは京都移転時には廃棄処分だろう。 ![]() ![]() ![]() ![]() 2014年閉館、2016年に梅小路蒸気機関車館へ展示物移転らしいが、あんな所は不便なのでやめてもらいたい。 ![]() ![]() ![]() ▲
by kfschinkel
| 2013-12-05 19:56
| キタ(梅田・堂島)
2011年 01月 11日
![]() 竣工年:昭和初期? 設計:不詳 マエダ化成 竣工年:不詳 設計:不詳 大阪の近代建築でも、例えば北船場あたりの情報はネットや本でよくでも出てくる。しかし御堂筋線を外れると都心であってもとたんに何も出てこなくなる。 ここに紹介するのは上本町にある優れた近代建築の小品で、力のある建築家による設計と思われるが詳細は不明。 ![]() 上町台地の傾斜に対応したリズミカルな非対称形が心地よい。 ![]() ![]() 一見無装飾だが、御影石の基壇部や軒蛇腹のロンバルディアバンドが簡略化された歴史的様式を示す。 ![]() 会社のトップページにこの建物が使われていて 大切にされているのが判るのが嬉しい。 ▲
by kfschinkel
| 2011-01-11 23:58
| 天王寺
2010年 10月 31日
![]() 竣工年:昭和9年(1934) 設計:大阪市建築課(伊藤正文) 東京商科大学(現 一橋大学)、神戸商業大学(現 神戸大学)と並ぶ旧制官立三商大であった、大阪商科大学に残る本館とサークル棟。 東京と神戸がロマネスクの歴史様式の学舎であるのに対し、大阪はモダニズムと水平線を強調したドイツ表現主義、そして戦前日本の官庁建築の特徴と言える車寄せと長大な中央棟屋を併せ持っている。設計者、伊藤正文は当時日本の前衛建築家集団、「日本インターナショナル建築会」の主導的人物で建築における衛生工学を推進したという。 十年余り前、センター試験を受けに市大に来た時には確かもっと沢山近代建築が残っていて、自分が試験を受けた校舎も天井の高いモダニズム近代建築であった記憶がある。しかしどうやらそれらは大阪市によってほとんど破壊されたらしくその校舎も無くなっていた。 ![]() ![]() ![]() 意匠デザインを古代ギリシャ/中世ゴシック以外の世界、中国、日本、インド、南米等に求めるのは、アールヌーボー、アールデコ、表現主義等の脱歴史主義様式を模索した芸術運動に共通して見られる。 例えばエミール・ガレの芸術表現に浮世絵等の日本美術の影響が見出されるからといって、「世界に認められた日本の美」とかなんとか書きたてるのは噴飯物である。彼らは西欧の歴史的様式から脱却する為ならば日本だろうが中国だろうがどこの国の意匠技法でも摂取しただろうし、実際やっている。 この流れが明らかに日本の建築家にまで見出されるのは興味深い。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() この様に歴史的建造物の手入れを意図的にサボタージュして「老朽化」したと称し破壊、新築するのが大阪市役所のお得意のやり口なのだろう。 ▲
by kfschinkel
| 2010-10-31 21:00
| その他大阪市
2009年 10月 19日
![]() 竣工年:不詳 設計:不詳 ほんの数年前まで大阪赤十字病院には壮麗な近代建築の病棟が多数存在していたのだが、殆どが潰されてしまった。高層の新築病棟とこの古い棟以外は高層マンションとなった。 結局この病棟が近代建築か戦後のものかは確認できなかった。しかし古写真と照合するとこの建物の窓割りに極似するモダニズム建築があるので、戦前の近代建築である可能性は濃厚と言える。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() その頃この国は一体どうなっているのだろうか?次の病棟を建替えるだけの経済力はまだ残っているのだろうか?
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by kfschinkel
| 2009-10-19 23:58
| 天王寺
2009年 03月 06日
![]() 竣工年:昭和14年(1939) 設計:吉田鉄郎 日本における近代モダニズム建築の代表作。 同じく吉田鉄朗設計の東京中央郵便局ではドイツ表現主義のブルーノ・タウトが賞賛したことからも判るが、コーナー部分の曲線美にドイツ表現主義の残滓が見られた。しかし8年後の大阪中央郵便局では表現主義の要素は払拭され、ドイツ・バウハウスが追求した直線的で一切の装飾を断ち切ったモダニズムの精神が体現化されている。 また大阪中央郵便局における柱と梁が壁から露出したファサードは日本建築における真壁のオマージュに他ならない。吉田鉄朗は日本建築の簡素さに傾倒し、すでに旧馬場邸(1928)で完璧な日本建築を設計していた。(近代当時は伝統的な日本建築は大工棟梁が設計と施工を一括して行っており、建築家が設計に参画することが稀) 大阪中央郵便局はドイツのモダニズム建築と日本建築の美の結晶である。 ![]() 柱や梁が漆喰壁から露出している。 ![]() これは石や煉瓦の壁で建築を支える組積構造を模した西洋歴史様式建築の時代が終わり、梁と壁で建築を支える日本建築のラーメン構造がRC造技術によって復僻したことを示している。 もはや壁に強度は全然いらないのである。 ![]() ![]() ボードを取り払えばさらに壮麗な空間になるのだろうが・・・・ ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() <参考> ![]()
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by kfschinkel
| 2009-03-06 22:27
| キタ(梅田・堂島)
2008年 09月 07日
![]() 竣工年:昭和8年(1933) 設計:横河民輔 <315年の長大な歴史-近世> 1690年、京都の呉服商、両替商の越後屋(三井)八郎右衛門は幕府大阪御金蔵銀御為替御用商人として大坂両替店を構えると同時に、呉服店を大阪・高麗橋に出店した。高麗橋には三井越後屋よりも巨大な江戸店を持つ老舗呉服商、岩城升屋本店があり、三井越後屋はわざわざその隣に店を構えた。要するに先発ライバル店の本拠地に殴り込みをかけたのである。 三井越後屋はお家芸である「現銀掛け値なし」を売り文句に(他店もすぐに真似たのだが)、大阪においても岩城升屋と並ぶ呉服商としての地位を固めた。 岩城升屋は明治初期に廃業したが、逆に三井は近代日本最大の財閥に膨張していくことになる。 <315年の長大な歴史-百貨店化> そして三井財閥の母体、三越の大阪店も東京・日本橋本店に遅れること3年、大正6年(1917)、木造町家店舗から西洋様式近代建築へと建て替えた。従来の呉服専門店ではない全ての物がそろう品揃え、西洋風建築の新しい百貨店、デパートメントストアは大阪庶民の脚光を集めた。 また三越は市電が走り、大正期までの大阪のメインストリートであった堺筋に面しており、追って大阪進出をした、高島屋と松坂屋はいずれも堺筋に店を構えた。 <315年の長大な歴史-永い苦節の始まり> 近畿圏最初の百貨店となった三越大阪店は、大阪を代表する百貨店の地位を確固たるものにするかに見えた。しかしそうはならなかった。立地条件が繁華さの要求される百貨店に適していなかったのである。 三越大阪店のある、北船場地区には大阪・日本を代表する豪商が集積していた。しかし御霊神社門前町であり小規模小売業者が集まった平野町通りを除くと、商家のほとんどが金融、流通を掌る両替商か問屋、あるは商売を止めた資産家、仕舞屋だった。素人相手の小売業者がほとんどいない、今日のビジネス街の先駆のようなこの特異的な商家街で、三越大阪店は周辺環境から孤立した存在であった。 近世以来大阪における繁華な小売業の中心は三越大阪店のある北船場ではなく、大丸やそごうのある島之内・南船場の心斎橋筋界隈だった。心斎橋筋、三越のある堺筋から離れたこの通りは、幸運にも昭和の初めに開通し今日まで大阪のメインストリートとなっている御堂筋(旧淀屋橋筋)と隣接していたのである。結局、昭和初期の百貨店を核とする新しい近代大衆消費文化は心斎橋において花開いたのだった。 さらに三越大阪店の客層は大阪の百貨店中で最も裕福で最も保守的であった。近世以来 三越は周辺の船場商家に呉服を売りさばいてきた。彼らの多くは新しい百貨店を見物しこそすれ、買い物を楽しむために百貨店に出向く事は慎重であった。呉服だろうと食品だろうと、全て代々出入りの商人を自邸に呼びつけ、消費する近世の慣習を捨てることはなかった。三越大阪店は結局、近代的な新商法を展開しつつも、番頭はんと丁稚どんがお得意様に必要分の呉服注文聞きにうかがう近世以来の外商営業に注力した。 <315年の長大な歴史-穏やかな終焉> しかしこの昔ながらの顧客、船場の豪商達の未来はあまり長くなかった。 その意味で三越大阪店に致命症を与えたのは、皮肉にも三井財閥出身の鉄道王、阪急電鉄総帥、小林一三である。三越の顧客であった都心の資産家は次第に郊外、つまり阪急沿線に建設した郊外の別荘へと移住し、さらにその終着駅、梅田に世界初のターミナルデパート、阪急百貨店を設置したのである。 近世以来の顧客が郊外流出していく中、三越は昭和初期、平成初期の二回、難波、梅田両駅でターミナルデパート化を果たすチャンスがあった。しかし高島屋、ヨドバシカメラとの競争に破れ、失敗した。 そごう破綻の際、心斎橋のそごう跡地へ進出する案も結局立ち消えとなった。 そして三越大阪店は法人向け外商部門が肥大した都心の小規模店舗として、創業以来の地、ほとんどの住民の消えた街、船場・高麗橋に存続した。しかし1996年阪神大震災に被災しその小さな店舗はさらに縮小、2005年店舗リストラの対象となり三越大阪店は315年の栄光と挫折の歴史に幕を下ろした。 大阪店閉店から3年後の2008年、旧三井財閥の起源にして、日本における近代大衆消費文化と百貨店業の創始者であった三越百貨店本体もまた、業績悪化により関東の新興百貨店、伊勢丹に事実上救済合併されたのである。 伝統ある暖簾だけが現在も残る。 ![]() 様式装飾もほとんど見られず、モダニズム風。 大正期築の旧館は阪神大震災により破損し取り壊され既に無い。 ![]() 近世、三井越後屋は京都に本家・大元方(経営統括本部)を置き、京都、大阪、江戸に本店、全国に支店網を広げた典型的な他国店持・京商人(たこくだなもち・きょうあきんど)であった。 三井越後屋大阪本店の建築も京都本店同様、典型的な京阪豪商町家建築の様式、表屋造りである。 ![]() 京畳で敷き詰められた空間が店奥まで延々と続いている。 間口の大きさは全然異なるが近世の三井越後屋大阪本店の店先も恐らくこんな感じだったのだろう。 ▲
by kfschinkel
| 2008-09-07 20:27
| 船場(淀屋橋界隈)-近代建築
2008年 07月 30日
![]() 竣工年: 昭和6年(1931) 設計:竹中工務店(石川純一郎) 宇和島藩蔵屋敷跡に建つ巨大な近代モダニズム建築。 1930年代に一世を風靡した流線型のファサードやガラス張りの尖塔、ガラス張りの階段室、メタリックなステンレス張りの外装材、グランドフロアのピロティなど、鉄とガラスとコンクリートの建材を強調した徹底したモダニズムぶりを示す。 <大朝と大毎-マス・メディアの創生> 大阪朝日新聞(大朝、現朝日新聞)は大阪毎日新聞(大毎、現毎日新聞)と並ぶ戦前新聞界の二大全国紙であり、2社とその傘下の東朝、東京日日以外に全国をカバーする一般紙は存在しなかった。 大朝、大毎は日本の近代商業メディアの起源だった。そして2社が政治の中枢、東京から離れた大阪の地で発展したのは明治期の新聞事情による。 明治期の東京の新聞社の多くが元武士が設立した政党機関紙、あるいは政党と癒着した政論新聞であった。新聞社のトップが主筆を努め、自らの政治意見を紙面に掲載していた。そして読者層は武家上がりの知識人や政治家で一般大衆は蚊帳の外に置かれていたのである。 一方大朝、大毎は資本家が設立した純然たる商業メディアであった。彼らの使命は新聞を大量に売ることであって、政治宣伝をすることでは無かった。ターゲットは一般大衆である。大衆は人よりも早くニュースを知る事を望む。海外特派員等、複雑で効率的なスピード重視の報道体制が整備された。大衆は説教じみた論説よりも低俗で面白いニュースを望む。口語体に絵と写真で表現された、興味本位で煽情的な記事で紙面を埋め尽くした。 次第に大阪の新聞社は朝日、毎日の2社に収斂してゆき、相次いで東京に進出した。この大衆の支持を背景とした巨大マス・メディア2社を前に、東京の政論新聞は為すすべも無く淘汰されたのである。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
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by kfschinkel
| 2008-07-30 03:02
| 中之島
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