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2007年 07月 05日
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by kfschinkel
| 2007-07-05 00:53
| 上町(大阪城界隈)
2007年 07月 05日
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by kfschinkel
| 2007-07-05 00:41
| 上町(大阪城界隈)
2007年 07月 05日
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by kfschinkel
| 2007-07-05 00:30
| 上町(大阪城界隈)
2007年 06月 30日
竣工年:昭和11年(1936) 設計:大阪市営繕課 室戸台風で亡くなった教員や生徒を追悼するために建設された慰霊碑なのだという。しかしその異常な巨大さ(高さ30m)や、災害とは全く無関係な右側レリーフがこの記念碑の真の建設目的をあからさまに表明している。 レリーフの直立不動で無表情な子供の隊列を前にモーニングコートを着た男が読み上げているのは、教育勅語である。教育勅語は明治23年(1890)10月30日、山縣有朋内閣が国家教育の基本方針を起草し、明治天皇の名義で発布された。昭和に入り、その民族主義的、国家主義的内容から、革新派官僚や軍部が国民の強制的同質化を進めるために神聖化された。当時天皇の写真と教育勅語のコピーを火事から救うために、燃える校舎へ飛び込んで死んだ馬鹿な教師が国民的英雄に祭り上げられたのだという。今日の北朝鮮を髣髴とさせる全体主義的政治体制下では、国民の自由な精神を圧殺するために、この様な巨大なモニュメントが必要だったのであろう。 戦後、日本教職員組合が帝国教育会から教育塔を受け継ぎ、この上なく美しく管理されている。そして教育勅語が発布された記念すべき毎年10月30日には政府賓客を招いて式典が催されるということだ。 #
by kfschinkel
| 2007-06-30 01:59
| 上町(大阪城界隈)
2007年 06月 24日
島之内のお茶屋 (現北極星心斎橋本店) 竣工年:昭和25年(1950) 設計施工:平田雅哉 島之内に残るお茶屋建築の遺構。現在はオムライス屋さんになっている。 島之内地区は近世には船場に次ぐ格式を誇る商業地で、住友などの豪商が本家を構えていた。 一方道頓堀の芝居小屋に近いこともあり、花街としても有名であった。当時のお茶屋は単に宴席の提供にとどまらず、地唄舞に代表される伝統芸能の担い手でもあった。また芸者の着る着物がファッションの流行を左右していた。さらにお茶屋で出される洗練された会席料理が食い倒れの街、大阪の名声を支えていた。花街とそれを構成するお茶屋などの接待施設は大阪における一大文化センターであった。 昭和初期には島之内地区(南地)だけで2000人以上もの芸者がいた。しかし戦災や富裕層の郊外移転、娯楽の多様化などにより南地にはたった一軒しかお茶屋は残っていない。 大阪の町家では珍しい入母屋造りの屋根で塀と客門を有する表屋造りとなっている。また透かし彫りの欄間や広い中庭が印象的である。 設計施工は大阪が産んだ近代数寄屋建築の巨匠、平田雅哉。 戦後築だが、木造お茶屋建築としては大阪現存唯一の貴重な遺構。 #
by kfschinkel
| 2007-06-24 03:46
| 島之内(心斎橋界隈)
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