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2021年 12月 05日
富田熊作邸(現猪名川町立静思館)(※兵庫県猪名川町) 竣工年:昭和10年(1935) 設計施工:斎藤宗太郎 大阪の古美術商社、山中商会ロンドン支店長を長年務めた古美術商、富田熊作の住宅兼迎賓館。 ロンドンのデイヴィットコレクションや大阪の安宅コレクションと並ぶ世界最高峰の中国陶磁器コレクション、ジュネーブのバウアーコレクションは彼が扱った。 山中商会社長の山中定次郎の別荘、桜鶴苑(1915 京都・南禅寺)がよくあるコテコテの近代数寄屋建築なのに対して、こちらは一見農家風。しかし門と屋敷のバランスや意匠、材料など、古民家を見慣れた人が見れば異質な建造物であるのが判るだろう。 これは京都の大工棟梁、斎藤宗太郎によって全国の銘木を用い、3年の歳月をかけて建造された農家風邸宅である。数寄屋建築でも茅葺の東屋の様な物はよくあるが、こちらは数寄屋よりは農家に寄せた意匠である。しかし北摂地方の農家の特色はすっ飛ばされ、奇妙な雰囲気がある。水洗トイレや床暖房など近代技術を設備に用いている点は他の近代和風建築と共通する。 村年間予算の倍以上、10万円を投じて故郷に建造された、世界的美術商によるユニークなこだわりの近代和風建築。 <山中商会> 20世紀前半、唐物商の集積する大阪高麗橋に本社を置き、ロンドン、ニューヨーク、ボストン、シカゴなどに支店を出した、恐らく世界史上最大の古美術商社。 当初は日本の工芸品や骨董品をニューヨークやロンドンの支店で製造販売する会社であった。 大正6年(1917)北京店を開店。1912年の清王朝崩壊によって空前絶後の質と量の中国美術品が北京店にて買い取られ、これらを欧米へ売りさばいた。顧客は19世紀帝国主義と産業革命で富を蓄積した、イギリスのデイヴィット卿、ユーモルフォプロス卿、アメリカのロックフェラー、フリーア等の名だたるコレクターである。 第二次世界大戦により全資産の8割に当たる海外資産が没収。北京店は閉店。世界的古美術商社としての壮麗な歴史に幕を下ろした。 石造のエントランス。 照明からして竣工当時の物であろう。 アプローチと長屋門 本来道路に面して門があるはずである。 かなりの田舎であるため 大富豪のコレクターが自動車によって訪問する事を想定したプランであることは明らかである。 長屋門。 この様な巨大な長屋門はこの規模の茅葺農家ではまずない。 河内や吹田など大阪旧市街近郊の農商兼業大庄屋クラスである。 国際的古美術商としての富と威厳を示したのであろう。 母屋と蔵のファサード。 木部に赤い紅ガラが塗られている‼ 紅ガラを塗る習慣は京都や近江の町方の習慣で、摂津の農家でこれはあり得ない。 天満の大阪くらしの今昔館の船場の復元町家も京都の安井杢工務店が紅ガラを塗りたくっておかしくなっている。棟梁の斎藤宗太郎は京都の大工であり、京都人は紅ガラの赤が大好きなのだ。 主屋。 茅葺と瓦葺を組み合わせた典型的な畿内の妻入入母屋造でよくできている。 本来京町家や数寄屋建築に葺く様な一文字瓦が京都大工の仕事。 平面図。農家特有の田の字型。 土間。 なんぼでも予算があったのであるから広大な土地を買い占め、もっと権威主義的に太い松の梁をめぐらせた広い土間にすれば良いのでは?と思ったが、やはり美術商のセンスである。狭い空間に良質な素材を濃密に用いた空間を作りたかったのであろう。 へっついさん(かまど)。 へっついさんの上の福助さん。 張り出した水頭症の頭の形状から明らかに近世の作品で、この建物よりも遥かに古い。 富田熊作の主力商品は宮廷趣味の極みとも言える中国景徳鎮清朝官窯なのだが 本当に好きだったのは対極ともいえる日本の民芸品だったのかもしれない。 判らないのだが燻しまくって時代付けしたのではないかと思う。 夏のしつらえで簾戸。 欄間なども素朴なデザインをあえて使用している。 槍などの武具。 帰農した元武家という設定なのだろう。 銀箔で装飾された襖も渋い。 床の間。 簡素だが極めて上質な木材が使用されている。 床柱は恐らく最高級の北山杉。 繊細でしゅっとした切れる様なさり気ないセンスが京都である。 素晴らしい。床の間の明治期伊万里焼。 富田熊作クラスの美術商ならばこの様な量産の壺を床の間に置くことはなかっただろう。 書院の置かれた民芸品、見ざる、言わざる、聞かざるの三猿。 この三猿、起源は古代エジプトに遡る。 富田熊作は信仰心が篤く、縁起物を大切にする人物で、竣工当時十二支にちなんだ全ての動物が敷地内に並んでいたのだという。 書院板は恐らく紫檀。 お洒落な数寄屋風水洗トイレ。 村内では初めての水洗トイレらしい。 この便器は恐らく竣工当時のものではないかと思う。 吉野窓のある茶室。 富田熊作は鑑賞陶磁器屋で当時日本主流の茶道具屋ではないがやはり茶室がある。 小さく、プライベートなおもてなしであったのだろう。 茶室付属テラスとテーブル・椅子。 明治5年(1872)、日本最初の博覧会・京都博覧会開催の際、外国人の為の茶席として裏千家11代玄々斎が考案した立礼席に用いる。 正座の習慣の無い外国の顧客を茶道でもてなすための設え。 洒脱な茶室の引手。 萩釉である。 水屋。 茶室ファサード。 ここだけ見ると普通の数寄屋や町家に見える。 左下の巨大なやかんは何? 硝子戸のある縁側。 蔵を模した書斎、書斎蔵。 田舎っぽく見せようとするあまり、奇妙な意匠になっている。 本物の地元の蔵。 書斎蔵内部。 床暖房となっており香木を焚いたとの事。 別の蔵にあった富田熊作の肖像画。 実直で朴訥そうな人柄が伺える。 右は恐らくインド更紗。 主屋屋根 こじんまりとした庭。 長屋門前にある井戸の貯水槽。 偶然だろうが、安宅コレクションの鉄鋼商社、安宅産業取り扱いである。 巨大な朝鮮の石虎。 李氏朝鮮時代に王陵や墳墓の守護として置かれたもので、文人石、武人石、望柱石、石馬、石虎などと共に、円形の墓を守るように外向きに置かれていた。 王族クラスの巨大な墳墓から日本へもたらされたのであろう。山中商会同様、帝国主義時代の残滓である。 親族との記念写真。 やはりこの石虎がこの邸宅のシンボル。 貯水槽と石虎。 高台より望む。手前が富田邸。 恐らく戦前からほとんど変わらない風景であろう。 ド田舎である。 上方落語に「池田の猪買い」というのがあり、昔から北摂=ド田舎というイメージだったのだろうが、ボタン鍋屋などいかにも田舎臭い。 薪が売られている。 付近の豪農邸宅。 恐らく富田邸と同様近代の建築だと思うが、変種の近代和風建築とは異なる自然な造形。 <バウアーコレクション> スイス・ジュネーブの東洋陶磁コレクター、アルフレッド・バウアー(1865-1951)は1928年より1949年まで中国清朝官窯の名品を中心に約500点の東洋陶磁器を富田熊作より購入した。量はそれほど多くは無いが、その質は恐るべきものである。清王朝が崩壊して間が無く、名品がまだ市中に豊富に流通していた時代に、富田によって選び抜かれたコレクションである。再現は恐らく不可能。 (バウアー・コレクション中国陶磁名品展 出光美術館 1994 より) 中国建窯禾目天目茶碗 この種の中国の古い焼き物は大抵遺跡から発掘された発掘品だが、これは日本の大名、酒井家に伝わった伝世品。 典型的な清朝官窯。 絵付けが派手で茶道具や床飾りとして使えないため、日本には余り入っていない。 景徳鎮で素地が焼かれ、北京の宮廷で絵付けされた特別な焼き物、琺瑯彩。通称「古月軒」。 元々生産数が少なく、殆ど美術館に収まっており市場にはほぼ出ない。2015年のクリスティーズのオークションでは、古月軒の小さな椀が85,240,000HKD(約130億円‼)で落札された。 バウアーコレクションのアイコン、古月軒瓶。 #
by kfschinkel
| 2021-12-05 17:26
| 阪神間・北摂
2021年 11月 27日
![]() 大阪市立栄第一尋常高等小学校中央棟(後 大阪人権博物館 取り壊し)と旧摂津国穢多役人村(現 浪速区芦原橋周辺)の町並み 竣工年:昭和3年(1928) 設計:不詳 学区市民と地元大資本の寄付によって建造された大阪市立小学校。昭和初期、大阪市や京都市の様な富裕な大都市では、自治体ではなく学区内の市民や企業の寄付金を競わせて豪華なRC造校舎が建造された。 HSBC旧香港本店(1936)を想起させる官庁や大学の様な豪壮な白亜のアールデコ建築。この街の卓越した富と繁栄を築いたのは近世に始まり、近代に全盛を極めた皮革産業である。 大阪市により中央棟を除いて破壊。同和事業と称し、両翼に展示施設が建造され、政治団体、部落解放同盟と大阪府・大阪市が設立した財団へ大阪人権博物館として貸し出されていた。同和事業終了により財団は立ち退き、2021年完全に破壊された。
-摂津国穢多役人村の歴史- <近世-船場の飛び地として生まれて> 皮革業、処刑に関わる賤民、穢多は畿内では既に中世に記録にある。 豊臣秀吉は新たな城下町大阪を築いた。秀吉は恐らく一向宗排除の観点から、穢多の分散移住を強制。秀吉死後、船場・渡辺筋へ再集積後、当時の大阪市外、下難波村へ移転させたのが旧摂津国穢多役人村の起源である。この市外移転の原因は謎だが、恐らく当時の衛生政策の一環だったのだろう。屠殺後、剥いだ革を川の水にさらすと、強烈な腐敗臭を発する。穢(けがれ)が多い穢多、まさに字ずらそのものである。 数度の移転により、宝永3年(1706)今日の浪速区芦原橋周辺に穢多役人村は落ち着いた。 今日「被差別階級」として穢多非人という言葉がある。確かに関東において穢多と非人の境界は曖昧であったが、大阪においては明確な区別があった。
・穢多:世襲制。大阪三郷における犯罪者処罰処刑・死体片付け・消防・大阪城太鼓張替の義務。皮革産業従事・糞尿汲み取り販売の特権。居住地区は穢多役人村1か所のみ。大坂町奉行所の支配。 ・非人:非世襲制or世襲。犯罪者逮捕・諜報活動の義務。成員は乞食、芸人、放浪者、肉体労働者、墓守、転び伴天連などの雑多な非社会分子。居住地区は非人村4か所(天王寺・鳶田・道頓堀・天満)。大坂町奉行所or各寺院の支配 非社会分子に警察権を与えるのは奇妙に感じられるが、似た者同士を捜査逮捕させるという合理的な治安対策である。世事見聞録(1816)によれば大阪の非人について「非人の類も上方筋はいづれも身上よく暮らし、…火付け・盗賊そのほか悪党を捜し出し、…権威を振り、…平人怖じ恐るる程の事なり」とある。明治に入ると彼らは警察に編入された。 つまり近世大阪の犯罪者は非人により逮捕後、大阪町奉行所へ連行、裁きを受け、穢多によって拷問、あるいは処刑され、ミナミ千日前で死体を晒されたのち埋葬されたのである。近世犯罪者の処遇は基本的に死刑と拷問と見せしめであり、人権や更生という意識は希薄であった。因みに京都では逮捕も穢多の仕事であった。彼らの職種も義務も地域によってバラバラである。 摂津国穢多役人村は大坂三郷から外れていたが、元あった船場同様、日本の皮革物流の中心となった。その皮革取扱い量は浅草弾左衛門が支配する江戸最大の穢多村、浅草新町の実に10倍、人口は5倍の最大約5000人に達した。中でも江戸後期、穢多役人村最大の豪商は太鼓屋(岩田)又兵衛家であり、その資産は70万両、現在の価値にして350億円に上ったという。それに次ぐ豪商は数十人に上った。 皮革産業の興隆は周辺地域からの人口流入をもたらした。大坂町奉行所へは他所からの穢多役人村移住許可願いが多数記録されている。建前として犯罪者の処刑拷問や死体の処理の義務を負い、製造時に悪臭を放つ皮革や糞便で生計を得る賤民の村なのかもしれないが、実態は大坂三郷と同様、物資と人の出入りの激しい繁華な商工業地であったのだろう。地元住民は自らの街をルーツの船場渡辺筋にちなんでか「渡辺村」、あるいは単に「船場町」と称していた。
<近代-膨張する富> 幕府が倒れると明治政府は武士同様、穢多の世襲特権を廃止。刑罰執行と消防は穢多に代わり刑務官と消防署が担う事となった。 しかし摂津国穢多役人村は大阪市西浜町と名を変え更なる発展を遂げることとなる。新政府の富国強兵政策により皮革の需要が爆発的に増大する一方、近世日本の皮革流通の中心であった西浜町には新たに朝鮮・中国から大量の皮革が流入した。近世莫大な富と取引ノウハウを蓄積した太鼓屋(岩田)又兵衛や播磨屋(合坂)五兵衛、住吉屋(前田)勘兵衛の様な旧穢多の皮革問屋が、この巨大な新興市場に信用を付与し、円滑な流通システムを構築したのである。
明治23年(1890年)第1回帝国議会選挙では自由民権運動家、中江兆民が大阪4区より出馬、旧穢多の代表候補であることを宣伝し、1位当選を果たした。 当時華族・高額納税者男子のみが投票権を有し、その数は全国民のわずか1%に過ぎなかった。明治期、西浜町に如何に富裕な旧穢多が多かったかを示している。
近代西浜町の皮革工業の大立役者は二人の近代資本家、藤田伝三郎と新田長次郎である。 長州出身の藤田伝三郎は西浜町に程近い難波村に巨大な軍靴工場を建てた。近代軍制により革靴が帝国の必需品となったのである。長州閥の政商藤田は軍靴注文を独占し、革靴で儲けた資本を紡績、建設、鉄道、電力、鉱業、マスコミへ投資して、巨大財閥を形成した。晩年には男爵位を受爵している。 藤田の軍靴工場で近代皮革技術を学んだ新田長次郎は近代日本最大の産業であった紡績業の紡織機の動力源を伝える革ベルト製造工場を建設。やはり日本屈指の大富豪となっている。1928年栄第一小学校建造の際には新田の多額の寄付があった。
全国各地の旧穢多村が明治以降没落・消滅していく中、西浜町の皮革産業は新しい富国強兵の国策に沿った近代資本転換に成功した。
一方で旧穢多村の格差も鮮明になる。 近世、皮革を生業とする者は富める豪商も貧しい職人も等しく、幕府から特権と義務を与えられた賤民、穢多であり、穢多村に住んだ。 対して藤田男爵や新田は、先祖の身分や扱う商品が一体何であろうと、自他共に認めるジェントルマンであった。市内の一等地や阪神間に巨大な邸宅・別荘を構え、多額の公的寄付を行い、華麗なる近代ブルジョワ社会の主要な名士となったのである。歴史書には残らない無数の西浜町の資産家や市民もそれに続いていったことは容易に想像できる。 彼らはもはや賤民である義務も利益もなかった。 一方近代になって西浜町の周辺へ移住し、皮革工場や食肉工場へ雇用された大量の労働者たちは取り残された。
1930年代以降、I.G.ファルベンやデュポンなどの独米巨大化学産業が天然皮革に代わる新たな合成素材を開発しつつあった。
1945年3月の大阪大空襲は近世以来の伝統ある西浜町を焼け野原にした。
旧穢多を祖先にもつ人々を含む旧住民は四散し、焼け跡にスラムが形成された。 近世の古き穢多役人村の記憶は薄れ、皮革産業の重要性は低下し、「被差別部落」という神話が生まれようとしていた。
<戦後-虚構と暴力と終焉> 今日我々が「被差別部落」に対して抱く、論理破綻した人権理論を高吟しながら、役所や企業へ集団で押しかけ暴力で恫喝し、脱税、恐喝、公務員の裏口採用、公共事業の利権獲得等を行う反社会的集団というイメージは、部落解放運動政治団体の中でも最大の団体、部落解放同盟の活動による所が大きい。 治安維持の成員であった近世の穢多が見れば何とも奇妙に見えただろうが、戦前の全国水平社の後継団体の一つである部落解放同盟の父と称される男、松本治一郎は福岡の暴力団組長であった。彼らは生業である犯罪稼業と社会運動を融合させたのである。 被差別者であることを名目に集団暴力で恫喝する運動は、北朝鮮系在日朝鮮人団体、朝鮮総連と類似している。しかし北朝鮮がどれほど残忍な犯罪国家で、パチンコ産業などで得られた金と暴力で汚染された集団であったとしても、朝鮮総連にはなお朝鮮民族の民族団体であるという事実が残る。 部落解放同盟にはそうした事実が欠落していた。沈滞した地方の農村枝郷はともかく、部落解放同盟運動の本拠たる大阪や京都、広島、福岡など西日本大都市の「被差別部落」の住民の殆どは旧穢多ではあり得ない。なぜなら近世、余りにも穢多村は小さく人口も少なかったから。実際には彼らの殆どが幕藩体制が崩壊し、国内移動が自由化され、産業が発達し、都市人口が膨張した近代に入って、農村から職を求めてやってきた単なる移住者とその子孫だったのだ。
マルクス主義から剽窃した階級闘争史観(万国労働者は平等であるというテーゼに反しているのだが)とスラム特有の反社会的組織暴力が組み合わさり、かつて穢多非人身分であったという偽の歴史で武装された「社会運動」は、戦後社会を怒れる謎の賤民集団への恐怖、偏見、あるいは同情・共感の渦に巻き込んだ。
1969年、同和対策事業特別措置法が成立。国家予算から毎年巨額の税金が同和公共事業に注ぎ込まれた。根拠不明のあぶく銭を差配したのは、あろうことか単なる一政治団体に過ぎない部落解放同盟であった。高度成長と共に予算と利権は膨張していった。莫大なカネが闇社会へと消えた。
近世最大の旧穢多村にして、付近に旧全国水平社の本部が置かれていた旧西浜町は恐らく日本最大規模の同和事業が行われた。かつて多くの地元市民や資本家の厚意と寄付によって建造された大阪市立栄小学校は大部分破壊され、部落解放同盟のプロパガンダ機関、大阪人権博物館となった。全国の教職員や子供たちが、人権学習と称してこのプロパガンダ機関への聖地巡礼を強制された。建造・運営予算の原資は大阪市と府の補助金であった。
虚妄のバブルはいずれ自壊する。2002年同和事業は停止され、部落解放同盟幹部による恐喝・脱税・横領・詐欺などの犯罪事件が相次いで発覚した。
今日、旧穢多役人村には浪速神社を除いて、かつて大阪の街の治安維持と防火、衛生を担い、近代日本の活気ある皮革産業の中心であった過去の面影は殆どない。 同和事業によって建造された閑散とした巨大市営団地群と、グロテスクな人権オブジェ、借主を失い廃墟と化した公共建築が残る。 <参考資料> 大阪渡辺村の発生期について : 歴史研究への絵地図史料の使用意義に触れつつ 2020年 上杉聰 近世上方における賤民支配の成立 1969年 中澤 巷一 小林 宏 近世大坂と被差別民社会 清文堂出版 2015年 寺木 伸明 藪田 貫 youtube動画【解説】部落民と同和団体の関係 2021年 神奈川県人権啓発センター マーク・ラムザイヤー教授 『日本の被差別民政策と組織的犯罪:同和対策事業 終結の影響』 2021年 示現舎 食肉の帝王―同和と暴力で巨富を掴んだ男 講談社 2003年 溝口敦 同和と銀行 三菱東京UFJ“汚れ役”の黒い回顧録 講談社 2009年 森功 ![]() ![]() 在りし日の大阪市立栄第一尋常高等小学校ジオラマ。 白黒写真を見ても豪壮な校舎であったことが判る。 京都国際マンガミュージアムの様にそのまま校舎を保存活用し、指定文化財に指定すべきであった。 ![]() 同上。 ![]() 中庭より中央棟を望む。 ![]() 近世の革細工品 京都では革細工は元来穢多の仕事ではなかった。大阪では基本的に革の製造から加工、流通に至るまで穢多村で行われたらしい。この種の穢多と非人と一般人の役割の違いは各行政区画や藩によって見事にバラバラで調べると目がちかちかしてくる。京都は六条と天部に加えてそれに次ぐ穢多村が何か所も点在し、更に四座雑色なる中世以来の賤民役人が関与した。大阪は穢多役人村1か所のみである。 歴史の古い京都と異なり、大阪は幕府直轄の近世商業都市なので権利関係が単純かつ集中し、これが経済的な強さに繋がったのであろう。
![]() 太鼓の胴 銘の播磨屋源兵衛は恐らく職人本人の名前ではなく所属商家の屋号であろう。播磨屋源兵衛は穢多村北之町の皮革問屋で、幕末には北前船を仕立てて蝦夷地の皮革輸入を計画する程の豪商であった。
![]() 昭和初期の長者番付。 西浜町の皮革王、新田長次郎の資産は3000万円。 これは野村財閥(現 野村證券・りそな銀行・大阪ガスect.)総帥の野村徳七と同額であり、他の大阪の実業家では伊藤忠商事の伊藤忠兵衛は1000万円、朝日新聞創業者村山龍平が700万円、武田薬品工業の武田長兵衛が600万円である。 皮革産業が近代大阪に如何に巨万の富をもたらしたかが判るだろう。 ![]() 近代日本の経済繁栄を支えた紡績機。革ベルトが用いられている。 (名古屋・トヨタ産業技術記念館) ![]() 近代の西浜町と周辺地図。 巨大な新田の工場が目立つ。 近世豪商の太鼓屋(岩田)又兵衛の敷地も大きい。
![]() 部落解放同盟の前身、水平社の旗。 全国水平社の本部は西浜町の近隣にあった。
![]() アイヌのジオラマ。 少数民族アイヌと穢多を並列視する視点には違和感を感じる。 穢多は大和民族の成員であり、単に職業上かつて賤視されていたに過ぎない。近代大阪の西浜町に関しては、大富豪や華族を輩出するだけの富も、代表議員を帝国議会へ送り込む政治権力もあったのである。 アイヌの人々にはその様な機会はなかった。 ![]() 暴動で殺された朝鮮人労働者の「差別戒名」が彫られた墓石。 戦前、土建ヤクザによって多数の朝鮮人が日本のタコ部屋に監禁され、鉄道やダムなどの建設に従事させられた。これは地元住民によって虐殺された朝鮮人労働者の墓石。通常6文字以上の戒名が4文字ということで差別戒名というのだが、むしろ施主が坊主にお布施をケチった結果に見える。朝鮮人だろうがアメリカ人だろうが彼らは金さえ積めば嬉々として院号を付けるだろう。関西人ならば判るだろうが坊主というのはそういうものなのだ。 北海道などでは未だにトンネル壁内に死体を塗り込まれた人骨が発見されるとの事で、墓を作られただけでもマシとすら言える。 無論大阪の旧穢多はこの様な悲惨な目にはあっていない。 ![]() 解体される大阪人権博物館(2021年)。 大阪人権博物館を同地から退去させたのは第十九代大阪市長橋下徹である。 彼の父親は八尾の同和改良住宅に住みガス自殺した、部落解放同盟系水道工事業の暴力団員であった。 部落解放同盟最高幹部が館長を務めたこの博物館に良い印象を抱きようがないことは想像できるだろう。 2002年、国の同和事業を終了させたのも、京都の「被差別部落」出身という野中広務であった。 そもそも部落解放同盟の活動や主張を激しく公然と非難してきたのは、かつて全国水平社と親密関係にあった日本共産党である。 本来同志になりうるべき立場の人々によって反発・否定される現象こそが、この「同和問題」の異常性を示している。 ![]() 跡地。 最初からヤクザ絡みの政治団体など噛まさず市立の歴史博物館として運営すべきであった。 どこか別の場所で新規開館予定という事だそうなので期待したい。
<旧摂津国穢多役人村の町並み> ![]() 写真では何の変哲もない集合住宅群に見えるが、とんでもない。 これだけ多数の戸数があるにも関わらず人気(ひとけ)が全く無いのだ。
![]() 300年の歴史と伝統のある街の痕跡が全くない。 南船場や島之内も旧西浜町同様空襲で焼け野原になったが、こんな状態にはなっていない。 町家や長屋や寺社は焼けても土蔵やRC造ビルは残っていたはずである。戦後街に戻った旧家の商人や住人もいただろう。 同和対策事業が数世紀の歴史と文化の蓄積を味噌も糞も一緒に完全に破壊したのである。 ![]() 上にも書いたが、ここに住んでいる人の多くは穢多の子孫でも何でもない。 単なる市営住宅の住民に過ぎない。
![]() 夜の街の様子。 まるで北朝鮮の集合住宅の様に窓に明かりが付いていない。 至便な場所であるにもかかわらず、住みたいと思う人が少ない、あるいは住民の転入を排除しているのだろう。 同和対策事業の性格をよく示している。 ![]() 旧摂津国穢多役人村中之町南之筋の太鼓屋(岩田)又兵衛家跡。 太鼓又は旧大阪三郷現存最大の町家、小西儀助商店を凌ぐ、間口12間の巨大な町家であった。 世事見聞録(1816)によれば 「上方筋は穢多の増長せし事にて、大坂渡辺の穢多に太鼓屋又兵衛といへるは、およそ七十万両ほどの分限にて、和漢の珍奇倉庫に充満し、奢侈大方ならず。美妾女も7,8人ありといふ。これに継ぎたるもの段々ありて豪福数十人あり。」とある。 和漢の珍奇というのは恐らく高価な茶道具であろう。穢多と茶道といえば戦国期には堺・舳松村の穢多豪商、武野紹鴎が茶人として名声を博していた。武野の師は公卿の三条西実隆、弟子には足利将軍家も含まれている。 古来より穢多は身分差別と貧困に苦しめられた等というのはウソである。どの身分にも金持ちと貧乏人がいたに過ぎない。 豪福数十人とあり、決して広くない穢多村に多くの豪商がひしめいていたことが判る。 ![]() 近世の地図。(「近世大坂と被差別民社会」清文堂 より) 船場同様、十三間堀川などの運河に囲まれていた。 太鼓又の中之町は老舗の豪商が、北之町は播磨屋五兵衛や大和屋又兵衛といった新興豪商が覇を競っていた。
![]() 地域の神社、浪速神社。 一見立派な神社に見えるが・・・・
![]() ![]() 荒れ放題である。 寺社は大概まわっている口だが、都会の大きな神社でこんな管理の悪い、うら寂しい神社は他に見たことが無い。 神社ではないが旧穢多役人村は近世、京都西本願寺の求めに応じて度々巨額の献金を行っていた記録があり、近世-近代には絶対にこんな貧相な有様ではなかったと思う。 ![]() どうやらこの神社の敷地の一部もしくは全部が大阪市の所有らしい。 権利が複雑な物件は管理責任の所在が不明になり、荒れがちになるのは当然である。
![]() 1945年3月大阪大空襲の慰霊塔。 南無妙法蓮華経とあるので日蓮宗である。旧穢多ではない明治以降の新住民の為の碑であろう。 旧穢多役人村の穢多は村内の浄土真宗本願寺派(西本願寺)穢寺たる徳浄寺・正宣寺・阿弥陀寺・順正寺の檀家であったため、宗派が異なる。元々旧西浜町内にあったが、恐らく同和事業のせいで他所へ移転してしまい今は無い。畿内の場合、穢寺は殆ど浄土真宗本願寺派に属する。 ![]() JR駅名の元となった芦原橋親柱。 様式はゼツェッション、大正4年(1915)市電道路として架設。 西浜町を囲む運河、鼬川に掛かっていた橋。 鼬川は昭和期に埋め立てられたが、この芦原橋、実は南海電鉄汐見橋線下十三間橋梁として現存しているらしい(!) ![]() 忠魂碑 碑は大砲を、周囲の欄干は砲弾をかたどっている。
![]() 環状線の高架橋。閑散としている。
![]() 環状線の美しいトラス橋。
![]() 公共工事のおぞましい砂漠の様な芦原橋で唯一のオアシス、芦原橋駅前の太鼓店。正確には旧穢多役人村から外れているのだが、昭和6年西浜にて創業とあるので、同和事業によって戦後強制移転させられたのだろう。これからも末永く偉大な旧穢多村の産業を守り続けてほしい。 ![]() 店先に展示された布団太鼓。 布団太鼓は大阪発祥、瀬戸内文化圏の神輿で、19世紀前半に現在の形になった。上の布団は神輿の神が祭りの間睡眠するためのものである。神さんの寝床という発想や、ふざけたデザインセンスが非常に大阪的。 近世、穢多村は船場・坐摩神社の氏子として認められず、お祭りの際、村を囲む十三間堀川の川端で布団太鼓を叩くのみであったが、近代に入り船乗り込みによる参加が許されたとの事。京都・崇仁の船鉾を想起させるエピソードである。 ![]() 如何にも和太鼓っぽいセンスの厳ついハイエース。 ![]() 売上高1.2兆円、国内首位、世界8位のミートパッカー、日本ハムのビル。日本ハムは現在西梅田に本社があるが、かつては旧穢多村に隣接する大国町に構えていた。 この様に食肉会社、皮革を用いるスポーツ用品企業の多くが大阪と周辺に本社を構えるのは近世穢多役人村あるいは近代西浜町の過去の栄光の残滓である。 しかし「被差別部落」=食肉というイメージがあるが、日本で食肉習慣が大々的に広まったのは明治以降なので後発産業である。1939年に津守で建造され戦後南港へ移転した大阪市立屠場の名残であろう。 ![]() 在りし日の旧穢多村を彷彿とさせる太鼓屋や毛皮問屋、履物問屋が集中する大国町。 ここは近世単なる農村であり、穢多村でも何でもないのだが、近代以降、隣の西浜町の経済発展と膨張によって問屋街と化したのである。しかしここも同和事業の指定地区となっていたのだ。この役所による指定がいかに史実に基づかない恣意的な代物であったかが判るだろう。要するに大国町は補助金狙いででっち上げられた元ニセ部落である。大阪・京都にはこの種のニセ部落が沢山ある。 しかし異常な公共工事によってゴーストタウンと化した本物の旧穢多村よりもまだ商業地として往時の活気をよく伝えている。 大国町は近年その利便性から、府外からの引っ越し先として都心の人気エリアとなっている。 #
by kfschinkel
| 2021-11-27 19:29
| その他大阪市
2020年 07月 27日
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by kfschinkel
| 2020-07-27 18:48
| その他大阪市
2020年 06月 25日
![]() 竣工年:不詳 設計施工:不詳 大阪府庁舎の背面にある謎のモダニズム官庁建築。 門柱は大阪府知事公館と共通の意匠。 今は亡き朝日ビルディングを思わせる尖塔が付属する。 意匠や立地からして恐らく戦前-戦後期に有力な建築家が設計したのであろう。 ![]() 門柱、塀は明らかに戦前の建築。 エントランスは微妙だが・・・・ ![]() アールデコ特有の尖塔がある。 ![]() 水平ラインが強調された窓割。 石造やレンガ造の組積式構造(地震国日本の西洋風建築では意外に無い)では不可能な窓割で(構造上縦長窓にならざるを得ない) 1920-30年代、RC造モダニズム建築に多用された意匠。 ![]() 同上。 ![]() 設計者の鋭利な感性が表れた、異常に斬新な小窓と外階段。 3千年続いた因習的な欧州歴史的様式を撲滅するという気概や緊張感の様な物が戦後の建築家から消えてしまったために、 戦後のモダニズム建築は惰性とマンネリで全く面白くないと感じるのは私だけだろうか? ![]() 同上。 ![]() この辺りは戦後っぽいが・・・・ ![]() 植え込みの老木が歴史を語る。 こういう風景はすっかり消えてしまった。 ![]() 同上。 ![]() 大阪府庁背面の建造物。 #
by kfschinkel
| 2020-06-25 17:42
| 上町(大阪城界隈)
2017年 09月 18日
![]() 竣工年:大手口多聞櫓/嘉永元年(1848) 千貫櫓/元和6年(1620) 焔硝蔵/貞享2年(1685) 設計施工:千貫櫓 /小堀遠州 今日残る大阪城は豊臣秀吉ではなく徳川幕府2代将軍徳川秀忠によって建造されたのである。徳川家はメンツ上、かつての天下人秀吉の大阪城跡に、秀吉の大阪城を凌駕する規模と壮麗な城を建造する必要があった。元和6年(1620)から9年3期に渡る天下普請によって完成したこの徳川大阪城は、石垣の高さ、二重に廻らせた堀割の長さで日本最大、近世日本城郭建築の集大成として新築された。以降東の江戸城と並び、250年間徳川幕府西国支配の象徴として君臨する。 しかしこの近世日本を代表する記念碑的建造物の真の施主、徳川将軍家は次第に忘れ去られ、太閤秀吉が建造した城として諸大名家の記録に残された。やはり大阪と言えば豊臣秀吉なのだろう。 近代に入り、陸軍省と陸軍第四師団の管轄に入り、軍用地となった。登記上大阪城の所有者は陸軍省のまま現在に至るという。 昭和34年(1959)、ようやく近代的な考古学調査によりこの城が徳川家によって秀吉の城の上に新築された物であることが明らかになる。 歴代城主は徳川将軍家。 しかし江戸城住の将軍家に代わり大阪城代が常駐し大阪及び畿内の支配、西国大名の監視等にあたった。大阪城代は徳川幕府の権力構造の中では将軍、老中、京都所司代に次ぐNo.4の序列ポジションである。 主要建造物の内、天守閣は建築後寛文5年(1665)たった39年で焼失後江戸城同様再建されず、巨大な将軍家本丸御殿、大坂城代屋敷も幕末の動乱で焼失した。 石垣と櫓、門、金蔵などが残り現在に至る。 ![]() 大手口多聞櫓 続櫓城内側ファサード ![]() 1628年に築後、1783年落雷により焼失し、幕末の混乱期、嘉永元年(1848)再建された大手口多聞櫓全景。現存する多聞櫓としては日本最大。 左が大手門大門を有する渡櫓、右が続櫓である。 国指定重要文化財。 すでに財政が破綻していた幕末の徳川幕府には巨大な大阪城を修復する経済力は無かった。 従ってこの大手口多聞櫓もまた、第九代鴻池善右衛門以下、大阪・堺・兵庫・西宮の豪商から御用金によって建造された。 この様な近世-近代の大阪を代表する記念碑的建造物の大部分は幕府や政府ではなく鴻池や加島屋、三井、住友の様な大阪とその周辺の近世豪商の資本によって建てられた。 やはり大阪は商人の街である。 ![]() 続櫓入口。 レンガの塀は旧帝国陸軍大阪衛戍刑務所塀。 ![]() 入口 ![]() 続櫓武者走り(廊下) 実際幕末には14代将軍徳川家茂が大阪城を拠点としここを通って本丸へ向かったという。 ![]() 同上 ![]() 窓を望む ![]() 大手門護衛の為の兵士が詰めた部屋 類似の姫路城の長局と比較すると軍事的色彩が強いという。 ![]() 続櫓、城内に侵入した敵を射殺するための銃眼。 ![]() 渡櫓 虫籠窓。 ![]() 同上 ![]() 渡櫓門(大手口大門)二階に相当する内部構造。 機能一点張りの松の梁組が見事である。 ここまで巨大な近世軍事施設の空間は有るようでない。 ![]() 同上 ![]() 同上 ![]() 同上 ![]() 余りにも巨大な空間の為松の梁は複数の部材を木組みで組み合わせて成立している。 ![]() かつての部材 ![]() 槍落としと銅板で被覆された虫籠窓 ![]() 素晴らしい空間。 ![]() 大手口多聞櫓より千貫櫓を望む ![]() 美しい塀 ![]() 左の櫓が大手口多聞櫓に続く千貫櫓 元和6年(1620)建造、大阪城内最古の建造物である。 二階唐破風が格式の高さを示している。 ![]() 千貫櫓入口 ![]() 千貫櫓内部 ![]() 千貫櫓階段 重厚な木の質感が素晴らしい ![]() 千貫櫓内部 ![]() 千貫櫓天井 古材がブスブス刺さっている。 ![]() 壁にも古材が懸けられている ![]() 千貫櫓横より城下を望む ![]() 大手口多聞櫓・千貫櫓から大阪城代屋敷跡を通って離れた場所にある焔硝蔵。 火薬庫である。貞享2年(1685)建造。 近世の焔硝蔵としては日本唯一の現存例で国指定重要文化財。 ![]() 焔硝蔵入口 約2.4mの壁厚に対して内部空間の幅も同じ約2.7m 落雷による大爆発後の再建であり、如何に防災に神経質であったかが判るだろう。 ![]() 花崗岩(御影石)によってのみ構築された見事な内部空間 このような近世石造建築は日本では希な例である。 ![]() 同上 ![]() 木造建築をそのまま御影石へ転化した意匠の石造梁 類似の建造物は現存せず、唯一の文化遺産である。 風雨による劣化・風化はほぼ皆無である。竣工時の設計施工が適切であったことが330年を経た今日に於いて証明されたこと、これは稀に見る光景ではないだろうか? ![]() ブロンズ製の扉 近世的意匠が素晴らしいの一言。 #
by kfschinkel
| 2017-09-18 19:43
| 上町(大阪城界隈)
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