
中村与一右衛門萬邸 (現 もりぐち歴史館 旧中村家住宅)
竣工年:大門-安永5年(1776) 主屋-寛政5年(1793)
設計施工:大阪尾州御屋敷棟梁、他
尾張藩大阪天満御蔵屋敷奉行の中村与一右衛門萬が建造した巨大な武家屋敷建築。
中村家は室町時代、河内国大窪郷(現 守口市)5ヶ村を開いた土豪。当主の義妹が徳川家康の側室、相応院となり、尾張徳川家藩祖・徳川義直を産んだことから代々尾張藩に召し抱えられた。現存する建物は尾張藩蔵屋敷奉行を務めた中村与一右衛門萬が建直したもので、主屋の土間回りは庄屋屋敷風。しかし御屋敷棟梁が設計施工に参画し、大門入口の高さが2.7mもあり騎乗での入邸可能で、式台付大玄関以下身分別の出入口が4つも有り、梁には公家屋敷に見られる蟇股が入るなど武家屋敷の特徴を示している。かつては周囲に1-4番蔵が建ち並び、濠を巡らせ、西から北にかけて土手が築かれ、中世土豪屋敷の外観を表していたそうだが、残念ながらそれらは現存しない。
しかし大阪府下現存唯一の在郷武家屋敷として貴重な大門、主屋が中村家から市に寄贈され平成10年(2003)守口市指定有形文化財として保存されることとなった。

長大なアプローチ。

蔵屋敷門を思わせる巨大な大門(長屋門)。
入口高さは2.7mあり当時の馬に乗って騎乗入邸可能との伝承がある。元の主は今で言う経済官僚兼地主で、ここに誰かが騎乗して入邸していたのかは謎である。馬=戦士=上流階級という図式は昔の欧州社会と同じ発想。

男部屋2室、馬部屋1室がある。

門より邸内を望む。

土蔵。

寺院建築のようにむくりではなく反りの入った入母屋屋根の個人邸宅は畿内では比較的少ない。
武士階級のほぼ全てが明治維新により没落しており、旧城下町の都心に大規模に建造された武家屋敷は全国的にも殆ど残っていない。従って何とも言えないのだが、この格式ばった反り入母屋屋根は武家の雰囲気が感じられる。

建築の華、吹抜けニワ(土間)。
庄屋屋敷風の広大な空間である。

力強く、開放感がある。
素晴らしい。

ごつい天井梁。

へっついさん(かまど)と太鼓。

かなりの年代物である。

同上。

同上。

同上。

同上。

丁稚車。

湯殿(風呂場)。
失われていたが当時の家相図に基づき復元された。

同上。

女中部屋。
小さいが採光がある。

居間より仏間を望む。
通常主人以外の家族の生活空間はここまで。

仏間。

禅宗だろうか?

恐らく中村家当主の私的座敷。
中村家は途中で南北に分岐しており北が家族の私的空間、南が応接空間である
京畳8畳と床でかなり広い。
奥のふすまは身支度部屋。

高貴な人間以外出入りが許されない式台付大玄関(左)と、主人及びそれと同位の人間が出入りできる内玄関(右、障子部分)。
身分の貴賤にうるさい武家屋敷にはやたらと出入口がある。中村家では4つ。

玄関上の蟇股(かえるまた)。
京都旧公家町(現 京都御苑)の旧閑院宮邸にはこれが沢山あったが、普通の農家や町家には絶対に無い。
こんな訳のわからない建材で身分の相違を誇示していた。

式台玄関より中の間を望む。
南側は全て応接のための空間である。

次の間。
最も格式の高い書院座敷の控えの間である。

中村家序列最高位の部屋、書院座敷、吉野窓。
非常に重厚で高級な空間だったのだが、女子高生コスプレ軍団の着替え部屋になっていて部屋中服が散乱しており撮影不可能。従来、特に大阪の歴史的建造物は行っても自分以外誰一人見学者がいないことが多かった。しかし最近コスプレの撮影に出くわすことが増えている。どんな形であれ歴史的建造物が注目されるのは良い傾向だが、こういうのは困る。
しかし書院座敷ではコスプレ撮影しないのだろうか?

書院座敷庭。

同上。

紋付瓦。

書院座敷縁側。
千鳥破風が付いている。
当主は代々蔵屋敷奉行など尾張徳川家の在阪重職を務めており、殿様とか幕府役人、蔵元の豪商などが訪れたのだろう。
それにしてもコスプレ機材が邪魔である。

復元された茶室。棟札に「檜皮師 大阪天満 檜皮屋久兵衛」とあったことから屋根を檜皮葺としたとのこと。

茶室に限らず全体的に市内の御屋敷棟梁が設計施工に関わっているせいか、通常の古民家と比べて都会的な雰囲気が強い。

扇面の窓。

主屋。
守口は用事がないと行くことは無い所だが、ここは一見の価値がある。

広大な前庭。
現状白洲だが竣工当時はどうだったのだろうか?

近所で発見した石造土蔵。
鹿児島ではよくあるが、近畿では非常に珍しい。形状は京阪式。

同上。

近所の農家。