
竣工年:昭和4年(1929)
設計施工:<棟梁>堀口長七 <手伝方>早川力松
日本建築の批評として最も著名なものは谷崎潤一郎の「陰影礼賛」である。これを精読すると、故郷を喪失し祖国の伝統世界から見捨てられた関東辺りの現代大衆がよくやる京都崇拝 (他の対象への崇拝同様実態が欠落しているから、流行が去れば彼らはまた別の何かを崇拝するのだろう。)とは異なり、客観的で実体験に基づく評論であることが判る。
そこで気になるのがこの卓越した審美眼と洞察力を持つ男が一体どんな家に住んでいたのかということだ。谷崎は引越しマニアで死ぬまでに40回以上も引越ししている。中でも家主の後藤家に追い出されるまで7年も住んだお気に入りの家、倚松庵が無料で公開されている。
倚松庵は大阪周辺の近代郊外住宅地でよく見かける典型的な下層中流階級向けの数寄屋建築貸家。近所の住吉・御影に残る上層中流階級(ブルジョワ)の豪邸を1/10に圧縮したような設計。洋館は廃され、代わりに洋風意匠の暖炉付属応接間が数寄屋建築内に組み込まれている。
印象的なのが採光が極めて優れている点である。天気の良い昼間に光が入らない部屋は存在しない。一見古めかしい外見をしているが近世には無かった当時最新の建築様式なのだろう。(谷崎の近世町家建築の採光に対する評価は春琴抄を参照。)そもそもこうした阪神間の郊外住宅は近代の鉄道網なしには存在しえない。
東京の旧市街、日本橋の薄暗い商家で生まれ、家族の希望であった大阪での丁稚奉公の進路を拒否し帝大に進学したこの小説家が最も愛した住まいは、数寄屋意匠の装飾に覆われた最新鋭の光あふれる近代住宅だった。「陰影礼賛」の内容も礼賛というよりは、むしろレクイエムに近い。




小説「細雪」の蒔岡家は倚松庵に於ける彼女達をモデルにしたと言われている。

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壁の仕上げに注目。モルタルっぽい不細工な仕上げである。近代建築では見られない工法で、谷崎の美意識に適合するとは絶対に考えられない手法である。
移築の際、神戸市が金をけちってこんな壁になってしまったのだろう。
写真に撮らなかったが天井板も最悪な材木である。
もっとも芦屋のヨドコウ迎賓館(1924)の現状内壁のほうが更に酷いが。



増築した離れに書斎があったのである。(移築されず)











高度成長期に流行った偽物とは違う本物の暖炉である。





おまけー<旅館ぎおん森庄(旧 喜志元)>

谷崎ゆかりの「陰影礼賛」空間を髣髴とさせる、京都の旅館、ぎおん森庄。
明治期に建てられた大塀造の町家で谷崎が京都の定宿にしていた旅館「喜志元」の遺構である。一時期廃墟と化していたが、近年現当主によって往時そのままに旅館として再生された。

アートイベントは普段入れない近代建築の内部を見学できる大きなチャンスとなりえる。



間取りからしてこれは恐らく旅館として建った建物ではない。仕舞屋だったのだろう。

気泡が入った波打ちの色ガラスなので明治期オリジナルの物だろう。

近世以来この街は豪奢な手工芸生産で栄えてきたのである。








おそらく大阪欄間。


本建築中最も格調高い部屋で、二階重視は近世ではありえない近代町家の特徴である。


