
「上本町の家というのは、これも純大阪式の、高い塀の門を潜るとれんじ格子の表つきの一構えがあって、玄関の土間から裏口まで通り庭が突き抜けてい、わずかに中前庭(なかせんざい)の鈍い明かりがさしている昼も薄暗い室内に、つやつやと拭き込んだ栂の柱が底光りをしていようという、古風な作りであった。・・・・
恐らく一二代前の先祖が建てて、別宅や隠居所に使ったり、分家や別家の家族に貸していたりしていたらしいのであるが、父の晩年に、それまでは船場の店の奥に住んでいた彼女たちが、住宅と店舗を別にする時代の流行を追って、その家に引き移るようになった」
昭和初期に書かれたこの文章に上本町、天王寺界隈に当時多数あった豪奢な邸宅の特色が現れている。
それらは伝統形式で建てられ、職住分離の初期の段階に現れた、市中町家の居住棟と郊外住宅を繫ぐミッシングリンクである。
このような住宅建築は空襲や家業の没落、郊外移転、相続分割などで消える運命にあるかに見える。
界隈一番の大物は、泉屋(住友)吉左衛門と布屋(山口)吉朗兵衛だった。彼らはやがて阪神間へ移り、戦後資本家階級からも脱落し-住友家現当主はかつて自分の家系が支配していた財閥の関連企業で一サラリーマンとして労働した-、巨大だった市内の邸宅も現存しない。
しかしビルや高層マンションの谷間にいまだに威容を見せる数寄屋邸宅がいくつか現存する。







この近所に白塀の恐ろしく巨大な古屋敷が最近まであったのだが、その敷地がそのまま超高層マンションに建替えられてしまった。









「変わらずに生き残る為には、自分が変わらなければならない」 映画「山猫」より