
竣工年:昭和9年(1934)
設計:矢部又吉
関東の小財閥、東京川崎財閥の一員(神戸の工業系コングロマリット、川崎重工グループとは別物)、川崎貯蓄銀行の可愛らしい銀行建築。
設計者は師の妻木頼黄(つまきよりなか)同様、シャルロッテンブルク工科大学(現 ベルリン工科大)で建築を学んだ矢部又吉。
同時期の銀行建築でよくある教科書的なギリシャ風新古典主義建築(1,2)とは印象が異なり、湾曲した正面ファサードや半円形ペディメントなど、バロック様式の特徴が取り入れられている(ex.Schloß Austerlitz 1774 現チェコ)。近代様式建築のなかでも最も正統的意匠が好まれた銀行建築にあって、矢部が手がけた他の銀行建築にもこうした折衷的特徴が見られ、ユニークな印象を与える。




<シャルロッテンブルク工科大学-栄光と破滅の歴史>

矢部又吉が留学したシャルロッテンブルク工科大学は、1770年創立のプロイセン王立鉱山アカデミーに始まり、産業革命下の1879年、ドイツで最初の工科大学として発足した。教育界のビスマルクこと、アルトホーフが推進した大学の近代化、予算とポストの拡充、能力主義の導入により、以降約半世紀に渡ってこの新しい大学はベルリン大やゲッティンゲン大などと並ぶ世界の知的中枢の一つとして機能した。卒業生のリストを見れば、化学のボッシュ、物理のヘルツ、フォン・ブラウン、哲学のヴィトゲンシュタイン、建築ではメンデルスゾーンやタウトといったその時代の代表する巨人が含まれている。
この栄光はしかし、1933年のナチス政権発足によって唐突に終幕を下ろした。ナチのユダヤ人迫害と思想統制により教員の実に25%が追放され、代わって無能なゴマすりや香具師がその後釜に据わったのである。キャンパス前のシャルロッテンブルガー通りでは連日ナチの異常な軍事パレードが行われた。そして大学の重厚長大なルネサンス様式のファサードはパレードを彩る絶好の舞台装置と化したのである。死に体となったドイツの大学はこうして知的活動の拠点から、全体主義イデオロギーの走狗となってしまった。
以降今日に至るまでその傷は癒えず、後進のベルリン工科大学もかつて程の拠点性は有していない。
写真は、1938年8月25日、ハンガリー王国摂政ホルティ・ミクローシュ訪独歓迎軍事パレードに於けるシャルロッテンブルク工科大学メインエントランス前の様子。この部分は後のソ連軍との市街戦によって破壊され現存しない。ハンガリー王国の国章、聖イシュトバーン王冠が掲げられている。