
竣工年: 昭和6年(1931)
設計:竹中工務店(石川純一郎)
宇和島藩蔵屋敷跡に建つ巨大な近代モダニズム建築。
1930年代に一世を風靡した流線型のファサードやガラス張りの尖塔、ガラス張りの階段室、メタリックなステンレス張りの外装材、グランドフロアのピロティなど、鉄とガラスとコンクリートの建材を強調した徹底したモダニズムぶりを示す。
<大朝と大毎-マス・メディアの創生>
大阪朝日新聞(大朝、現朝日新聞)は大阪毎日新聞(大毎、現毎日新聞)と並ぶ戦前新聞界の二大全国紙であり、2社とその傘下の東朝、東京日日以外に全国をカバーする一般紙は存在しなかった。
大朝、大毎は日本の近代商業メディアの起源だった。そして2社が政治の中枢、東京から離れた大阪の地で発展したのは明治期の新聞事情による。
明治期の東京の新聞社の多くが元武士が設立した政党機関紙、あるいは政党と癒着した政論新聞であった。新聞社のトップが主筆を努め、自らの政治意見を紙面に掲載していた。そして読者層は武家上がりの知識人や政治家で一般大衆は蚊帳の外に置かれていたのである。
一方大朝、大毎は資本家が設立した純然たる商業メディアであった。彼らの使命は新聞を大量に売ることであって、政治宣伝をすることでは無かった。ターゲットは一般大衆である。大衆は人よりも早くニュースを知る事を望む。海外特派員等、複雑で効率的なスピード重視の報道体制が整備された。大衆は説教じみた論説よりも低俗で面白いニュースを望む。口語体に絵と写真で表現された、興味本位で煽情的な記事で紙面を埋め尽くした。
次第に大阪の新聞社は朝日、毎日の2社に収斂してゆき、相次いで東京に進出した。この大衆の支持を背景とした巨大マス・メディア2社を前に、東京の政論新聞は為すすべも無く淘汰されたのである。






