
小西儀助商店(現 コニシ株式会社)
竣工年: 明治36年(1903)
設計施工: 不詳
間口10間、奥行き22間、表屋造りの巨大な町家建築。
規模が大きく、都心のビジネス街にあり、近代西洋様式建築の本によく登場するせいか、何の施設なのか理解されていないことがある。しかしこれは空襲を免れた京都や奈良の都心に残る大部分の町家と同じ、近代に入って日本古来の伝統工法で造られ、店舗と主家住居が一体となった純然たる町家建築である。
ネット上では基礎:渋谷五郎 意匠:本間乙彦とされていることがあるが、本間乙彦氏は1892年生まれなので、11歳でこの建築の意匠設計をしていた計算になる。実際には棟札は現存せず、設計施工者は不明である。恐らく芝川ビルディング(1930 大阪伏見町)の設計者と誤って記載したHpを、他のHpがコピペして広まってしまったのだろう。そもそも町家だろうと寺院だろうと戦前までの日本の伝統建築は設計と施工を大工棟梁が全て一括して手がける。よって設計者が西洋建築の高等教育を受けた建築家であることは
清水猛商店(1923 大阪淡路町)のような特殊な例外を除いて、通常ありえないのである。
近世以来、戦災で焼け野原になるまで大阪都心部一帯がこの様な町家建築や木造長屋で埋め尽くされていた。鉄筋コンクリートのモダニズムビルが大阪における都市建築の主流を占めるのは戦後せいぜい半世紀のことに過ぎない。
材木を厳選し3年がかりで建築された。堺筋拡張の際一部が軒切りとなり、関東大震災後に
店舗棟後方の居住棟に付属した3階望楼が耐震上の理由で大阪・放出(はなてん)へ移築され(これも現存するらしい)現在の外観となった。
本二階建ての店舗棟や3階望楼、レンガ製のへっついさん(かまど)、威圧的な高い階高のファサードに近代町家建築の特色がみられる。また畿内では近代以降に多用された、耐火仕様の土蔵造り工法が用いられている。土蔵造り工法発祥の地、関東における商家建築の外観は、巨大な鬼瓦や箱棟、観音開扉などの絢爛豪華な装飾で飾り立てられていた。しかし小西儀助商店ではそうした関東風の装飾は余り見られない。むしろ表屋造りで白漆喰塗りの正面、店舗棟一階を突出させない「大阪建」と呼ばれた造作など、凹凸の少ない豆腐を切った様な京阪町家建築の外観をよく備えている。
また内部意匠は商家の分限を守った簡素なもので、近世町家の
適塾同様、繊細な数奇屋風の意匠が多く取り入れられている。
全体として近世大阪豪商町家建築の伝統に忠実なつくりとなっている。大阪市立の博物館、大阪くらしの今昔館では近世後期の大阪市中の町家を再現する際、小西儀助商店を参考資料のひとつとしている。
<小西儀助商店>
小西儀助商店は江戸末期、京都の初代小西儀助が薬種流通の中心、大阪道修町で創業した薬種商(薬問屋)。明治後期にはすでに有力な薬種商に成長し、薬業の神様として有名な少彦名神社再建の際には塩野義三郎、上村長兵衛とともに総代となっている。生薬刻みから洋酒、化学製品へと業容を広げ、戦後接着剤メーカー、コニシ株式会社に発展した。
小西儀助商店の元丁稚、鳥井信治郎はサントリーを創業している。また「アサヒビール」を最初に作ったのは小西儀助商店なのだが、まずくて売れず商標を手放してしまった。
<現状>
堺筋に面した一等地にある巨大物件ゆえにピーク時には数千万円もの税金がかかったという厄介な代物であった。取り壊して高層ビルにする計画や、サントリーが工場のある大阪府三島郡山崎へ移築する話もあったらしい。しかし所有者の判断により現地保存という理想的な形で残った。
近世から近代にかけて日本の金融、流通の中心として君臨し、数々の文学作品の舞台ともなった大阪船場の豪商町家建築がこの地に残った意義は大きい。
そして2001年、明治後期築の町家建築としては異例の国の重要文化財に指定され、永久に保存されることとなった。

かつての背割り下水を跨いだ、圧倒的なファサード。
建築面積は京都都心に現存する最大の町家建築、杉本家住宅(下京 1870)を凌ぐ480㎡である。

京阪豪商町家の定石、通りから店舗棟、住居棟、土蔵を配置した表屋造り。

白漆喰塗りの正面、店舗棟一階を突出させない「大阪建」の店舗棟正面。
小売業者が有力であった京都や江戸とは異なり、小西儀助商店のような大阪の豪商の大部分が両替商か問屋だった。よって宣伝の必要は無く、店先に看板などは一切設置しない。
「大阪は商売の町なので看板がド派手」などというのは歴史をよく知らない人の戯言である。

この建物は現役の事務所なので内部は非公開となっている。
しかしこの日はモダンアートの展覧会が開催されており入ることが出来た。
以下の写真で写っているオブジェは展示作品である
玄関庭より真壁の住居棟を望む。

高感度撮影がしょぼい昔のデジカメなのでひどい画像だが、住居棟通り庭の力強い木組み。
戦後まで当主一家が住んでいたらしく、生活感が残り、まだ内装が「生きて」いる。一般に古建築の所有権が自治体に移りセンスの悪い役人が余計なリノベーションをやると、建物は剥製と化し「死んだ」ようになる。

なにかいわくがあるのかお地蔵さんがある。

中の間(仏間)より主座敷を望む。都心の町家は一般に狭く、主座敷から仏間が独立しているのは格式が高い。

部屋にタンスなどの家具が置かれていないのは恐らく撤去されたのではなく最初から無かったのだろう。
坐式の日本ではタンスの歴史は浅く近世になって出現したに過ぎない。
特に伝統を重視していた船場の豪商は、近代に入ってもなお部屋にタンスなどは置かず、わざわざ別棟の衣装蔵から着物を運んで着ていた。
当然小西儀助商店にも衣装蔵がある。

町家のものとしては巨大な階段。
この町家の木部はよほど上質な木材を使ったのかどれも黒光りしている。

天気が悪いせいもあるが邸内は昼間にもかかわらず、闇が垂れ込めている。光が入ると運気が逃げるという大阪商家の謂れに基ずいた特別設計だ。現代建築とは真逆の価値観である。
小西儀助商店と同じ船場道修町の商家を題材にした谷崎潤一郎の春琴抄の一節
「非衛生的な奥深い部屋に垂れ籠めて育った娘達の透き通るような白さと青さと細さとはどれ程であったか田舎者の佐助少年の眼にそれがいかばかり妖しく艶に映ったか。」
などという表現は、実際そんな空間が残っていないと本当に理解することはできない。

数奇屋風の要素が濃厚な二階座敷。

二階座敷より中前庭と土蔵を望む。
他よりも庭が広いせいか、通常船場の町家では植えられない落葉樹の紅葉がある。
この種の都心の豪商町家建築はもう東京にはもう一軒たりとも残っていない。
大阪の経済地盤沈下がやかましく言われているが、文化財保存の水準が世界最悪レベルの日本にあってこのような素晴らしい建築が残ったのはまさに経済地盤沈下のおかげなのだろう。
要するに我々が戦後へいこら働いて得られた成果が、大都会を埋め尽くす醜く無機質な経済設計の現代ビルだったということだ。勤勉馬鹿としか言いようが無い。