料亭・錦戸(取り壊し)
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竣工年:昭和26年(1951)
設計施工:平田雅哉
敗戦からわずか6年後に建った数寄屋普請の料亭建築。そでかべや虫籠、通りに面したつし二階の棟の後方に本二階建ての棟を置く表屋造りの構成は伝統的な大阪の町家風。しかし2棟を接続する棟屋が通り側のつし二階の棟よりも背が高く、通りに入母屋屋根を見せているのは変則的である。またつし二階の軒の出が出ていないので恐らく一部ないしは全部がコンクリート造なのだろうが、意匠は日本建築である。
設計施工は大阪が生んだ数寄屋建築の巨匠、平田雅哉。取り壊された今となっては、当主の造詣が取り入れられたという内装は平田雅哉作品集(創元社)で見ることができる。
<大阪の料亭料理>
近世から近代にかけて料理と普請、庭は上方(大阪)に止めを刺すと言われたのだという。
この食文化を支えたのが天下の台所としての経済力に加えて、瀬戸内海に接続した大阪湾の地の利が挙げられる。距離的には遠いにもかかわらず、運搬上は江戸や京都よりも北海道の昆布を仕入れるのに最も有利で、日本の昆布の中心市場となり、かつ瀬戸内海の根付の魚介類、特に明石鯛を取り入れているのが大阪の料理の特徴である。
このように大阪が高価な真昆布の出汁に瀬戸内海産の魚介類を用いたのに対して、京都は安価な利尻昆布の出汁に日本海産の魚介類を、江戸では鰹出汁に太平洋産の魚介類が使用された。
三都の内、特に江戸の料理はにぎりずしやうなぎのようなかつてのジャンクフードを除いて、近代物流が発達した大正期以降、大阪の料理に駆逐された。山本為三郎著、「上方今と昔」(文藝春秋新社 1958)によれば上方では高価な鯛などを少量用いるのに対し、江戸の料理は安いハゼのような雑魚を大量に用いたのでコストが高く廃れたとある。しかしそれ以前に根本的に江戸の料理が不味かったのだろう。東京・日本橋生まれの美食の小説家、谷崎潤一郎は、故郷、東京の料理を味が濃いだけの「田舎料理」などと罵倒している。結局東京の代表的料亭は関東大震災以降、在来の料理法を捨て、新喜楽、金田中、出井は大阪今橋のつる家へ、柳光亭、田村は高麗橋の吉兆で修行し大阪の料理法を摂取する羽目になった。
大阪の料亭料理の声価をさらに高めたのは高麗橋吉兆創業者の湯木貞一である。彼自身数奇者だったのだが、従来数奇者が茶室で個人的に供した茶懐石を初めて商業ベースに乗せて成功し、日本料理界を代表するカリスマにのしあがった。湯木以前の料亭料理とは懐石ではなく会席、つまり芸妓をはべらせ、興に入るような宴会料理だったのである。湯木以降、日本料理は茶道の「文化的」で「高貴」な(本当にそうなのかはさておき)ベールを身に纏うことになる。
しかし近代以降東京の料亭において大阪式料理が興隆し今日に至る一方、皮肉にも大阪の料亭は戦後次第に衰退していった。近代大阪の代表的な料亭のうち堺卯、播半は廃業、つる家は京都へ移転、灘萬は東京へ移転、吉兆は不祥事でブランドイメージを失墜し、残るは北浜の花外楼位になった。
今日、大阪では日本料亭と同価格帯の西洋料理店や大阪発祥のカウンター式割烹が隆盛している。また近世には大阪と同規模の大都市だったにもかかわらず、今日人口で大阪の1/3、域内総生産では1/5にまで凋落してしまった京都では旧来の料亭が未だに多数健在であることからして、大阪人がよくいう「大阪の経済地盤沈下」が大阪料亭衰退の根本的な原因だとはとても信じがたい。


