道修町の仕舞屋(現 美々卯 道修町店)
|

竣工年:不詳
設計:不詳
表屋造りの町家から店舗棟を省き、代わりに高塀を設置した町家建築。このタイプの町家は京都では「大塀造り」と呼ばれ、近代以降に出現した。
近世大阪の都心には、商売を止め相続資産による財産所得のみで生計をたてる豪家、仕舞屋が無数に存在した。彼らの経済基盤を支えたのは、長子相続制と幕府の町人に対する課税率の異常な低さである。しかし彼らがいくら大富豪であろうと思い思いの意匠の邸宅を建造し住むことなどできなかった。士農工商中、最も卑しい身分にありながら事実上日本の経済、文化を主導していた町人に対して、分際を知らしめるべく幕府は建築規制を雨あられのごとく降り注いだ。(無論だからといって武家階級が好きな住宅建築を建てることができた訳では全く無い。かれらもまた内輪の階級意識に束縛されていたのだ。)
また大阪船場では幕府の規制の上に、さらに町ごとの自主規制を制定したため、ほぼ同じ形の町家建築が整然と並ぶ街並みが形成されたのである。しかしこれでは商家街では商売を行っていようと仕舞家であろうと、通りに店舗棟を構えなくてはならないし、実際そうだった。
近代に入ってようやくこうした不要な店舗棟の無い専用住宅建築が許されるようになった。例えば島之内鰻谷にあった表屋造りの町家建築、泉屋(住友)吉左衛門家本邸(1724頃竣工 空襲により焼失)では明治初めに店舗機能を大阪中之島へ移した上、居住棟前に建つ店舗棟を潰し、高塀を設置している。これによって近代的都市生活、つまり町家の専用住宅建築化と職住分離を果たしたのである。

このような大阪文化の遺構を残す姿勢は素晴らしい。

店舗棟が塀になっている以外は表屋造りと基本構成は同じである。

かつてこの建築が住居として使われていた時代、
地蔵盆にはこの地蔵尊の前に近所のぼんぼんやいとはんが大勢集まっていたのだろう。

