適塾
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適塾
竣工年: 寛政4年(1792)ごろ
設計施工:不詳
蘭学塾適塾の遺構だが建築は間口6間、奥行き21間、表屋造りの町家である。寛政4年(1792)の船場の大火後に建てられ、元は貸し商家であった。
適塾の建物自体は「普通」の町家である、などとよく紹介される。しかし京都を含む日本の大都市の旧市街で近世商家がほとんど残っていない中、こうした18世紀築の商家が都心に残っていること自体奇跡である。例えば東京・江戸の旧市街に江戸期竣工の町家は全く現存しない。
また大阪の住民のほとんどが長屋住まいであった時代、十人両替以下豪商が集積し金融街として近世日本最高の格式を誇った北船場でこの町家のような間口6間、土蔵付属表屋造りの一戸建て町家に住む町人は当時の上層有産階級に属していたのは間違いない。人口過密が著しい大阪都心部では間口6間を越える商家は巨戸と呼ばれていた。
武家出身の医師、緒方洪庵による買収後改築され、店舗棟一階に通常の商家には無い式台玄関が設置されている。しかし商家では商いが行われる店舗棟一階が適塾教室、奉公人の寝床や物置として使われた虫籠窓の店舗棟二階は塾生大部屋、主家の住居として用いられる後方の住居棟は洪庵一家の住居といった具合に、当時の商家の用途に対応した使われ方がされていた。
ファサードは軒切りによる改変が見られるものの豆腐に屋根をのせたような外観や中世以来の伝統を持つ通り庭等、典型的な京阪商家建築のディティールを備えている。黒光りする直線的な建材の質感に、坪庭に接する書斎部屋に丸窓を設け、主座敷は壁土の色に変化をつける等、重厚で豊潤な内装は近世大阪町人の嗜好が反映されている。こうした特徴は近代の大阪あるいは周辺地域の町家、数寄屋住宅にも継承されている。
一方塾生大部屋の刀で切りつけられた柱の傷は、塾生らの多くが近代日本のエスタブリッシュメントを輩出した下層武家出身者であった事を示している。
近世近代史上重要な蘭学塾遺構で、貴重な近世大阪商家でもある適塾は1964年国の重要文化財に指定された。
<適塾と緒方洪庵>
適塾塾頭緒方洪庵(1810-1863)は備中国足守藩(現 岡山県足守)藩士の3男で、大阪、江戸、長崎で蘭学、医学の教育を受け医師になった。そして天保9年(1838)大阪船場の瓦町で医院と蘭学塾適塾を開業した。開業当初から彼の医師としての名声は高く大阪医師番付では最高位の大関に格付けされていた。
そして手狭になった医院と適塾を拡張すべく弘化2年(1845)にこの町家を買収したのである。裏には阿蘭陀屋敷と呼ばれた外国人専用宿があり、輸入薬の集積地、道修町へも徒歩数分の距離である。最新のヨーロッパ医学を吸収する上で適した立地条件だった。以来約二十年間洪庵は当地に居住し、蘭学教育と診療にあたった。
適塾教育の実態は医学の教育研究機関というよりもむしろ語学学校に近いものであった。塾生らは争うように一冊しかないオランダ語辞書にかじりつき、ヨーロッパに関する知識を吸収した。塾生は身分にわけへだてなく歓迎されたが、多くは諸国の下層武士階級の若者であった。彼らは勉強熱心な一方、粗暴で不潔だったため、周辺住民から嫌がられたという。
語学学校という性質上、近所の懐徳堂とは異なり適塾から新しい理論や知見が発信されることはなかった。しかし門下生は累計1000人を超え、その中には福沢諭吉、大村益次郎など明治維新後政府高官や教育者として著名となった者が多数含まれる。
緒方洪庵自身はこの間教育者としてだけでなく医師、学者としても活躍した。大阪道修町や故郷足守で種痘(天然痘予防のための牛痘ウイルス接種)施設を設置し、ベルリン大学初代医学部長で大学付属病院シャリテ創立者としても有名なクリストフ・フーフェラントの著書「医学必携」Enchiridion Medicum(1836)を翻訳した。参勤交代の際大阪を訪れた諸大名もこぞって彼の診察をうけた。
そして緒方の名声は幕府にまでおよぶ。文久2年(1862)、度重なる幕府の要請により幕府奥医師兼西洋医学所頭取として江戸へ下った。
しかしその大層な肩書きと裏腹に俸禄は低く貧窮し、10ヶ月後に江戸で病死した。享年54歳。
ファサード
通りに面した店舗棟と後方の居住棟に分離した表屋造。
式台玄関
玄関床板。
教室の書院。
床の天井が網代になった洗練された意匠。
教室全景。それほど広くない。
坪庭。
船場の町家の庭には基本的に色花のなる木は植えないのがしきたりである。
同上。
同上。
美しいむくり屋根。
坪庭に面する採光の取れた書斎
同上。吉野窓が美しい。
書斎机。
主座敷を望む。
主座敷書院。
基本的な町家の造作は大阪と京都は余り変わらないと思う。
しかし工芸品の濃厚な塊のような京都の町家とは少し異なる
大阪のシンプルで重厚な意匠の特徴がお判り頂けるだろうか?
同上。
透かしの大阪欄間。
見るからに年代物であり、都心では最古のものかもしれない。
縁側。
中前庭(なかせんざい)。
同上。
手洗い。便器は現代のものだが多分江戸時代でも便所だった部屋だと思われる。
女部屋だったと思うが忘れた。
台所。
通り庭吹き抜け。へっついさん(かまど)の煙を逃すための煙り出し口がある。
通り庭。これも京阪町家の特徴。
階段箪笥。
二階は塾生や使用人の生活空間である。
ふつうの商家であれば丁稚の寝床となる。
表屋ツシ二階の空間。
ここで福沢諭吉ら塾生が寝起きしていた。
同上。
同上天井板。
柱には無数の刀傷がある。
刀傷のせいで結構細っているのだが構造は大丈夫なのか?
窓から見える二百年間変わらない風景。
表通り側の虫籠窓。
階段降り口。
階段降り口。
通り庭に通じる内玄関。
格式の低いものは表玄関ではなく内玄関から入るのである。
四方の屋根の高さが全て違う所に注目。
日の光が変わっても玄関に採光をもたらすための意図的な工夫である。
式台玄関から見た内玄関入り口。
格子の向こうは納戸か何かだろうか?
旧背割り下水(太閤下水)より土蔵を望む。