住友ビルディング (現 三井住友銀行大阪本店営業部)
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竣工年: 1期/ 大正15年(1926)2期/ 昭和5年(1930)
設計: 住友工作部(長谷部鋭吉、竹腰健造)
住友財閥の経営統括本部ビルとして建築され、財閥持ち株会社住友合資会社と傘下の住友銀行、住友金属、住友生命等、主要各社の本社事務所が入居した。財閥解体後はGHQ第一軍司令部、住友銀行本店を経て現在は三井住友銀行大阪本店営業部となっている。
延べ床面積は三井本館(31805㎡)や三菱系の明治生命館(31682㎡)を凌ぐ35983㎡で、現存する財閥系の近代オフィスビルとしては日本最大となる。
本店設計を外注した三井や三菱とは異なり、独自の設計事務所を組織し、国内外から逸材を集め5年以上の歳月を費やして完成した。こうした住友財閥の建築重視の姿勢は、欧州外遊時に西欧の建築美に感銘を受けた当主の十五代住友吉左衞門友純の意向が強かったことによるという。今日、住友工作部の後進である日建設計は世界最大の設計事務所に成長した。
灰色の御影石の列柱というよくあるパターンではない、黄土色の龍山岩でシンプルな窓割りのファサードはこの種の建築では珍しい。モダニズムの端緒とみることもできる。しかし住友工作部の後進、長谷部竹腰設計事務所の作品である大阪株式取引所市場館(1935)や日本生命保険相互会社本店本館(1938,1962) 、住友銀行京都支店(取り壊し 1938)においても一貫して分厚い石材外壁、直線的な窓、古典的な意匠の一部が効果的に用いられている。これは設計者の長谷部鋭吉らが様式主義からの完全な脱却というよりは、むしろ当時興隆しつつあったモダニズムの潮流にあって、いかに古典主義的な荘重さや威厳を表現していくか模索していたとも考えられる。
エントランス部分にイオニア式オーダーを設置した厳格な北東西側ファサードに対して、南側のファサードだけはアーチ窓にメダリオンという古代ローマ風の意匠となる。
ストイックな外装に対し、内装は一転して31本のコリント式大オーダーが並ぶ壮大な新古典主義的意匠が見られる。
しかし古代エジプトやローマ帝国の荒廃した遺跡を彷彿とさせる、分厚い石材に直線的な窓が整然と配置された巨大なファサードには理屈ぬきで圧倒される。 住友ビルは大阪財界がまだ日本経済のイニシアティブを掌握していた20世紀前半における記念碑的な建築といえるだろう。
窓の格子もこれと同じデザインであったが、戦中の金属供出で失われ、現存せず。
この意匠は明らかに先輩、野口孫市、日高胖の手になる大阪図書館(現 大阪府立中之島図書館 1904)のオマージュである。
現在は水は出ない。
設備設計はアメリカのテニー・アンド・オームス社が担当した。まだ日本にはこのような大規模建築の設備技術は未発達だったのである。
東西問わず19世紀末ー20世紀前半の記念碑的様式建築ではやたらと電灯が目に付く。
大した確証が無いのにも関わらず、一般にアドルフ・ヒトラーは反ユダヤ主義のシンボルとしてハーケンクロイツをナチス党旗と定めたとされている。
しかし彼自身新古典主義様式を偏愛した建築家崩れの政治家だった。意外に古代建築意匠から拾ってきたのではないだろうか。
まさに光のカテドラルである。
戦前帝国政府の経済政策や相次ぐ恐慌によって住友財閥は世界有数の従業員数を雇用する企業体へ膨張していた。その指令部として造られたビルだけあって公共建築の様な威圧感がある。
大正15年一期分竣工以降、昭和5年二期工事完成までの4年間メインバンキングホールとして使用されていた空間である。
あくまでここは「仮営業所」であって二期工事で完成したのが南側の現営業部、あの巨大なバシリカ様式のメインバンキングホールなのである。
同じ大正15年に竣工した大阪府庁と比較するとその洗練性、豪華さは明らかである。民間企業のビルが官庁建築を凌ぐ豪華さを示したのは当時の全国道府県中大阪のみであり、かつての商都としての威厳を伝える建造物である。
かつては雨洩りで上にビニールシートがかけられていたらしいが今回の耐震修復工事で復活したとのこと。
住友グループは現状何万人もの従業員を雇用する巨大企業グループなのだが、元々江戸初期創業の大阪屈指の老舗の銅商、泉屋であった。明治期の産業革命により銅の鋳造販売の規模膨張に伴って、化学、機械、運輸、金融、商社等に業容拡大したのである。要するに地域の老舗の呉服商や造り酒屋が古い町家を維持しているようなもので、この様な文化財建造物を存続公開するというのは老舗商店に相応しい地域貢献と言える。
ちなみにこのビルの最大の見どころは今回限定公開されたこの共用応接ロビーではなく、南側入り口から入るメインバンキングホールである。(写真1 2 3)こちらは平日営業時間内ならば銀行ATMが中にあり誰でも入れるので、ぜひこちらをご覧いただきたい。
それは一般にあるようなスタイルブックの様式意匠を機械的に当てはめたようなステレオタイプ的銀行建築とは全然異なる。古代ローマ建築バシリカ様式と当時最新の鉄筋コンクリート建築技術が融合した恐るべき巨大空間である。特に印象的なのはオーダーが支持する身廊内壁の真に迫る高さと、巨大でシャープな近未来的ガラス天井である。そこに模倣や様式の未消化的要素や僻地的退廃は全く感じられない。西洋建築様式生誕の地、イタリア建築の正統的意匠を近代的に再構築した作品と言える。当時の日本建築界は先進国イギリス、アメリカあるいはドイツ=オーストリアの影響を受けた意匠が一般的であり、イタリア色を前面に押し出した建築家は希少であった。しかしその欧米の建築家が目指した理想こそがギリシャ・ローマの古代世界であった。
総じて当時日本の建築家のレベルが長谷部鋭吉、竹腰健造クラスのトップ層にあっては欧米の水準に肉薄していたことを示している。
住友合資会社は財閥持ち株会社であり、財閥の最高意思決定会議に用いられたのだろう。
ロマネスク様式の円柱が歴史的様式の混在を示している。
家具はこの時代の物は照明器具同様、建築家が建築とセットでデザインしたものである。ファサード同様様式装飾はほぼ見られない。
石張りの床に絨毯を敷いているのが欧州的。