大阪市立栄第一尋常高等小学校中央棟(後 大阪人権博物館 取り壊し)と旧摂津国穢多役人村(現 浪速区芦原橋周辺)の町並み
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大阪市立栄第一尋常高等小学校中央棟(後 大阪人権博物館 取り壊し)と旧摂津国穢多役人村(現 浪速区芦原橋周辺)の町並み
竣工年:昭和3年(1928)
設計:不詳
学区市民と地元大資本の寄付によって建造された大阪市立小学校。昭和初期、大阪市や京都市の様な富裕な大都市では、自治体ではなく学区内の市民や企業の寄付金を競わせて豪華なRC造校舎が建造された。
HSBC旧香港本店(1936)を想起させる官庁や大学の様な豪壮な白亜のアールデコ建築。この街の卓越した富と繁栄を築いたのは近世に始まり、近代に全盛を極めた皮革産業である。
大阪市により中央棟を除いて破壊。同和事業と称し、両翼に展示施設が建造され、政治団体、部落解放同盟と大阪府・大阪市が設立した財団へ大阪人権博物館として貸し出されていた。同和事業終了により財団は立ち退き、2021年完全に破壊された。
-摂津国穢多役人村の歴史-
<近世-船場の飛び地として生まれて>
皮革業、処刑に関わる賤民、穢多は畿内では既に中世に記録にある。
豊臣秀吉は新たな城下町大阪を築いた。秀吉は恐らく一向宗排除の観点から、穢多の分散移住を強制。秀吉死後、船場・渡辺筋へ再集積後、当時の大阪市外、下難波村へ移転させたのが旧摂津国穢多役人村の起源である。この市外移転の原因は謎だが、恐らく当時の衛生政策の一環だったのだろう。屠殺後、剥いだ革を川の水にさらすと、強烈な腐敗臭を発する。穢(けがれ)が多い穢多、まさに字ずらそのものである。
数度の移転により、宝永3年(1706)今日の浪速区芦原橋周辺に穢多役人村は落ち着いた。
今日「被差別階級」として穢多非人という言葉がある。確かに関東において穢多と非人の境界は曖昧であったが、大阪においては明確な区別があった。
・穢多:世襲制。大阪三郷における犯罪者処罰処刑・死体片付け・消防・大阪城太鼓張替の義務。皮革産業従事・糞尿汲み取り販売の特権。居住地区は穢多役人村1か所のみ。大坂町奉行所の支配。
・非人:非世襲制or世襲。犯罪者逮捕・諜報活動の義務。成員は乞食、芸人、放浪者、肉体労働者、墓守、転び伴天連などの雑多な非社会分子。居住地区は非人村4か所(天王寺・鳶田・道頓堀・天満)。大坂町奉行所or各寺院の支配
非社会分子に警察権を与えるのは奇妙に感じられるが、似た者同士を捜査逮捕させるという合理的な治安対策である。世事見聞録(1816)によれば大阪の非人について「非人の類も上方筋はいづれも身上よく暮らし、…火付け・盗賊そのほか悪党を捜し出し、…権威を振り、…平人怖じ恐るる程の事なり」とある。明治に入ると彼らは警察に編入された。
つまり近世大阪の犯罪者は非人により逮捕後、大阪町奉行所へ連行、裁きを受け、穢多によって拷問、あるいは処刑され、ミナミ千日前で死体を晒されたのち埋葬されたのである。近世犯罪者の処遇は基本的に死刑と拷問と見せしめであり、人権や更生という意識は希薄であった。因みに京都では逮捕も穢多の仕事であった。彼らの職種も義務も地域によってバラバラである。
摂津国穢多役人村は大坂三郷から外れていたが、元あった船場同様、日本の皮革物流の中心となった。その皮革取扱い量は浅草弾左衛門が支配する江戸最大の穢多村、浅草新町の実に10倍、人口は5倍の最大約5000人に達した。中でも江戸後期、穢多役人村最大の豪商は太鼓屋(岩田)又兵衛家であり、その資産は70万両、現在の価値にして350億円に上ったという。それに次ぐ豪商は数十人に上った。
皮革産業の興隆は周辺地域からの人口流入をもたらした。大坂町奉行所へは他所からの穢多役人村移住許可願いが多数記録されている。建前として犯罪者の処刑拷問や死体の処理の義務を負い、製造時に悪臭を放つ皮革や糞便で生計を得る賤民の村なのかもしれないが、実態は大坂三郷と同様、物資と人の出入りの激しい繁華な商工業地であったのだろう。地元住民は自らの街をルーツの船場渡辺筋にちなんでか「渡辺村」、あるいは単に「船場町」と称していた。
<近代-膨張する富>
幕府が倒れると明治政府は武士同様、穢多の世襲特権を廃止。刑罰執行と消防は穢多に代わり刑務官と消防署が担う事となった。
しかし摂津国穢多役人村は大阪市西浜町と名を変え更なる発展を遂げることとなる。新政府の富国強兵政策により皮革の需要が爆発的に増大する一方、近世日本の皮革流通の中心であった西浜町には新たに朝鮮・中国から大量の皮革が流入した。近世莫大な富と取引ノウハウを蓄積した太鼓屋(岩田)又兵衛や播磨屋(合坂)五兵衛、住吉屋(前田)勘兵衛の様な旧穢多の皮革問屋が、この巨大な新興市場に信用を付与し、円滑な流通システムを構築したのである。
明治23年(1890年)第1回帝国議会選挙では自由民権運動家、中江兆民が大阪4区より出馬、旧穢多の代表候補であることを宣伝し、1位当選を果たした。
当時華族・高額納税者男子のみが投票権を有し、その数は全国民のわずか1%に過ぎなかった。明治期、西浜町に如何に富裕な旧穢多が多かったかを示している。
近代西浜町の皮革工業の大立役者は二人の近代資本家、藤田伝三郎と新田長次郎である。
長州出身の藤田伝三郎は西浜町に程近い難波村に巨大な軍靴工場を建てた。近代軍制により革靴が帝国の必需品となったのである。長州閥の政商藤田は軍靴注文を独占し、革靴で儲けた資本を紡績、建設、鉄道、電力、鉱業、マスコミへ投資して、巨大財閥を形成した。晩年には男爵位を受爵している。
藤田の軍靴工場で近代皮革技術を学んだ新田長次郎は近代日本最大の産業であった紡績業の紡織機の動力源を伝える革ベルト製造工場を建設。やはり日本屈指の大富豪となっている。1928年栄第一小学校建造の際には新田の多額の寄付があった。
全国各地の旧穢多村が明治以降没落・消滅していく中、西浜町の皮革産業は新しい富国強兵の国策に沿った近代資本転換に成功した。
一方で旧穢多村の格差も鮮明になる。
近世、皮革を生業とする者は富める豪商も貧しい職人も等しく、幕府から特権と義務を与えられた賤民、穢多であり、穢多村に住んだ。
対して藤田男爵や新田は、先祖の身分や扱う商品が一体何であろうと、自他共に認めるジェントルマンであった。市内の一等地や阪神間に巨大な邸宅・別荘を構え、多額の公的寄付を行い、華麗なる近代ブルジョワ社会の主要な名士となったのである。歴史書には残らない無数の西浜町の資産家や市民もそれに続いていったことは容易に想像できる。
彼らはもはや賤民である義務も利益もなかった。
一方近代になって西浜町の周辺へ移住し、皮革工場や食肉工場へ雇用された大量の労働者たちは取り残された。
1930年代以降、I.G.ファルベンやデュポンなどの独米巨大化学産業が天然皮革に代わる新たな合成素材を開発しつつあった。
1945年3月の大阪大空襲は近世以来の伝統ある西浜町を焼け野原にした。
旧穢多を祖先にもつ人々を含む旧住民は四散し、焼け跡にスラムが形成された。
近世の古き穢多役人村の記憶は薄れ、皮革産業の重要性は低下し、「被差別部落」という神話が生まれようとしていた。
<戦後-虚構と暴力と終焉>
今日我々が「被差別部落」に対して抱く、論理破綻した人権理論を高吟しながら、役所や企業へ集団で押しかけ暴力で恫喝し、脱税、恐喝、公務員の裏口採用、公共事業の利権獲得等を行う反社会的集団というイメージは、部落解放運動政治団体の中でも最大の団体、部落解放同盟の活動による所が大きい。
治安維持の成員であった近世の穢多が見れば何とも奇妙に見えただろうが、戦前の全国水平社の後継団体の一つである部落解放同盟の父と称される男、松本治一郎は福岡の暴力団組長であった。彼らは生業である犯罪稼業と社会運動を融合させたのである。
被差別者であることを名目に集団暴力で恫喝する運動は、北朝鮮系在日朝鮮人団体、朝鮮総連と類似している。しかし北朝鮮がどれほど残忍な犯罪国家で、パチンコ産業などで得られた金と暴力で汚染された集団であったとしても、朝鮮総連にはなお朝鮮民族の民族団体であるという事実が残る。
部落解放同盟にはそうした事実が欠落していた。沈滞した地方の農村枝郷はともかく、部落解放同盟運動の本拠たる大阪や京都、広島、福岡など西日本大都市の「被差別部落」の住民の殆どは旧穢多ではあり得ない。なぜなら近世、余りにも穢多村は小さく人口も少なかったから。実際には彼らの殆どが幕藩体制が崩壊し、国内移動が自由化され、産業が発達し、都市人口が膨張した近代に入って、農村から職を求めてやってきた単なる移住者とその子孫だったのだ。
マルクス主義から剽窃した階級闘争史観(万国労働者は平等であるというテーゼに反しているのだが)とスラム特有の反社会的組織暴力が組み合わさり、かつて穢多非人身分であったという偽の歴史で武装された「社会運動」は、戦後社会を怒れる謎の賤民集団への恐怖、偏見、あるいは同情・共感の渦に巻き込んだ。
1969年、同和対策事業特別措置法が成立。国家予算から毎年巨額の税金が同和公共事業に注ぎ込まれた。根拠不明のあぶく銭を差配したのは、あろうことか単なる一政治団体に過ぎない部落解放同盟であった。高度成長と共に予算と利権は膨張していった。莫大なカネが闇社会へと消えた。
近世最大の旧穢多村にして、付近に旧全国水平社の本部が置かれていた旧西浜町は恐らく日本最大規模の同和事業が行われた。かつて多くの地元市民や資本家の厚意と寄付によって建造された大阪市立栄小学校は大部分破壊され、部落解放同盟のプロパガンダ機関、大阪人権博物館となった。全国の教職員や子供たちが、人権学習と称してこのプロパガンダ機関への聖地巡礼を強制された。建造・運営予算の原資は大阪市と府の補助金であった。
虚妄のバブルはいずれ自壊する。2002年同和事業は停止され、部落解放同盟幹部による恐喝・脱税・横領・詐欺などの犯罪事件が相次いで発覚した。
今日、旧穢多役人村には浪速神社を除いて、かつて大阪の街の治安維持と防火、衛生を担い、近代日本の活気ある皮革産業の中心であった過去の面影は殆どない。
同和事業によって建造された閑散とした巨大市営団地群と、グロテスクな人権オブジェ、借主を失い廃墟と化した公共建築が残る。
<参考資料>
大阪渡辺村の発生期について : 歴史研究への絵地図史料の使用意義に触れつつ 2020年 上杉聰
近世上方における賤民支配の成立 1969年 中澤 巷一 小林 宏
近世大坂と被差別民社会 清文堂出版 2015年 寺木 伸明 藪田 貫
youtube動画【解説】部落民と同和団体の関係 2021年 神奈川県人権啓発センター
マーク・ラムザイヤー教授 『日本の被差別民政策と組織的犯罪:同和対策事業 終結の影響』 2021年 示現舎
食肉の帝王―同和と暴力で巨富を掴んだ男 講談社 2003年 溝口敦
同和と銀行 三菱東京UFJ“汚れ役”の黒い回顧録 講談社 2009年 森功


在りし日の大阪市立栄第一尋常高等小学校ジオラマ。
白黒写真を見ても豪壮な校舎であったことが判る。
京都国際マンガミュージアムの様にそのまま校舎を保存活用し、指定文化財に指定すべきであった。

同上。

中庭より中央棟を望む。

近世の革細工品
京都では革細工は元来穢多の仕事ではなかった。大阪では基本的に革の製造から加工、流通に至るまで穢多村で行われたらしい。この種の穢多と非人と一般人の役割の違いは各行政区画や藩によって見事にバラバラで調べると目がちかちかしてくる。京都は六条と天部に加えてそれに次ぐ穢多村が何か所も点在し、更に四座雑色なる中世以来の賤民役人が関与した。大阪は穢多役人村1か所のみである。
歴史の古い京都と異なり、大阪は幕府直轄の近世商業都市なので権利関係が単純かつ集中し、これが経済的な強さに繋がったのであろう。

太鼓の胴
銘の播磨屋源兵衛は恐らく職人本人の名前ではなく所属商家の屋号であろう。播磨屋源兵衛は穢多村北之町の皮革問屋で、幕末には北前船を仕立てて蝦夷地の皮革輸入を計画する程の豪商であった。

昭和初期の長者番付。
西浜町の皮革王、新田長次郎の資産は3000万円。
これは野村財閥(現 野村證券・りそな銀行・大阪ガスect.)総帥の野村徳七と同額であり、他の大阪の実業家では伊藤忠商事の伊藤忠兵衛は1000万円、朝日新聞創業者村山龍平が700万円、武田薬品工業の武田長兵衛が600万円である。
皮革産業が近代大阪に如何に巨万の富をもたらしたかが判るだろう。

近代日本の経済繁栄を支えた紡績機。革ベルトが用いられている。
(名古屋・トヨタ産業技術記念館)

近代の西浜町と周辺地図。
巨大な新田の工場が目立つ。
近世豪商の太鼓屋(岩田)又兵衛の敷地も大きい。

部落解放同盟の前身、水平社の旗。
全国水平社の本部は西浜町の近隣にあった。

アイヌのジオラマ。
少数民族アイヌと穢多を並列視する視点には違和感を感じる。
穢多は大和民族の成員であり、単に職業上かつて賤視されていたに過ぎない。近代大阪の西浜町に関しては、大富豪や華族を輩出するだけの富も、代表議員を帝国議会へ送り込む政治権力もあったのである。
アイヌの人々にはその様な機会はなかった。

暴動で殺された朝鮮人労働者の「差別戒名」が彫られた墓石。
戦前、土建ヤクザによって多数の朝鮮人が日本のタコ部屋に監禁され、鉄道やダムなどの建設に従事させられた。これは地元住民によって虐殺された朝鮮人労働者の墓石。通常6文字以上の戒名が4文字ということで差別戒名というのだが、むしろ施主が坊主にお布施をケチった結果に見える。朝鮮人だろうがアメリカ人だろうが彼らは金さえ積めば嬉々として院号を付けるだろう。関西人ならば判るだろうが坊主というのはそういうものなのだ。
北海道などでは未だにトンネル壁内に死体を塗り込まれた人骨が発見されるとの事で、墓を作られただけでもマシとすら言える。
無論大阪の旧穢多はこの様な悲惨な目にはあっていない。

解体される大阪人権博物館(2021年)。
大阪人権博物館を同地から退去させたのは第十九代大阪市長橋下徹である。
彼の父親は八尾の同和改良住宅に住みガス自殺した、部落解放同盟系水道工事業の暴力団員であった。
部落解放同盟最高幹部が館長を務めたこの博物館に良い印象を抱きようがないことは想像できるだろう。
2002年、国の同和事業を終了させたのも、京都の「被差別部落」出身という野中広務であった。
そもそも部落解放同盟の活動や主張を激しく公然と非難してきたのは、かつて全国水平社と親密関係にあった日本共産党である。
本来同志になりうるべき立場の人々によって反発・否定される現象こそが、この「同和問題」の異常性を示している。

跡地。
最初からヤクザ絡みの政治団体など噛まさず市立の歴史博物館として運営すべきであった。
どこか別の場所で新規開館予定という事だそうなので期待したい。
<旧摂津国穢多役人村の町並み>

写真では何の変哲もない集合住宅群に見えるが、とんでもない。
これだけ多数の戸数があるにも関わらず人気(ひとけ)が全く無いのだ。

300年の歴史と伝統のある街の痕跡が全くない。
南船場や島之内も旧西浜町同様空襲で焼け野原になったが、こんな状態にはなっていない。
町家や長屋や寺社は焼けても土蔵やRC造ビルは残っていたはずである。戦後街に戻った旧家の商人や住人もいただろう。
同和対策事業が数世紀の歴史と文化の蓄積を味噌も糞も一緒に完全に破壊したのである。

上にも書いたが、ここに住んでいる人の多くは穢多の子孫でも何でもない。
単なる市営住宅の住民に過ぎない。

夜の街の様子。
まるで北朝鮮の集合住宅の様に窓に明かりが付いていない。
至便な場所であるにもかかわらず、住みたいと思う人が少ない、あるいは住民の転入を排除しているのだろう。
同和対策事業の性格をよく示している。

旧摂津国穢多役人村中之町南之筋の太鼓屋(岩田)又兵衛家跡。
太鼓又は旧大阪三郷現存最大の町家、小西儀助商店を凌ぐ、間口12間の巨大な町家であった。
世事見聞録(1816)によれば
「上方筋は穢多の増長せし事にて、大坂渡辺の穢多に太鼓屋又兵衛といへるは、およそ七十万両ほどの分限にて、和漢の珍奇倉庫に充満し、奢侈大方ならず。美妾女も7,8人ありといふ。これに継ぎたるもの段々ありて豪福数十人あり。」とある。
和漢の珍奇というのは恐らく高価な茶道具であろう。穢多と茶道といえば戦国期には堺・舳松村の穢多豪商、武野紹鴎が茶人として名声を博していた。武野の師は公卿の三条西実隆、弟子には足利将軍家も含まれている。
古来より穢多は身分差別と貧困に苦しめられた等というのはウソである。どの身分にも金持ちと貧乏人がいたに過ぎない。
豪福数十人とあり、決して広くない穢多村に多くの豪商がひしめいていたことが判る。

近世の地図。(「近世大坂と被差別民社会」清文堂 より)
船場同様、十三間堀川などの運河に囲まれていた。
太鼓又の中之町は老舗の豪商が、北之町は播磨屋五兵衛や大和屋又兵衛といった新興豪商が覇を競っていた。

地域の神社、浪速神社。
一見立派な神社に見えるが・・・・


荒れ放題である。
寺社は大概まわっている口だが、都会の大きな神社でこんな管理の悪い、うら寂しい神社は他に見たことが無い。
神社ではないが旧穢多役人村は近世、京都西本願寺の求めに応じて度々巨額の献金を行っていた記録があり、近世-近代には絶対にこんな貧相な有様ではなかったと思う。

どうやらこの神社の敷地の一部もしくは全部が大阪市の所有らしい。
権利が複雑な物件は管理責任の所在が不明になり、荒れがちになるのは当然である。

1945年3月大阪大空襲の慰霊塔。
南無妙法蓮華経とあるので日蓮宗である。旧穢多ではない明治以降の新住民の為の碑であろう。
旧穢多役人村の穢多は村内の浄土真宗本願寺派(西本願寺)穢寺たる徳浄寺・正宣寺・阿弥陀寺・順正寺の檀家であったため、宗派が異なる。元々旧西浜町内にあったが、恐らく同和事業のせいで他所へ移転してしまい今は無い。畿内の場合、穢寺は殆ど浄土真宗本願寺派に属する。

JR駅名の元となった芦原橋親柱。
様式はゼツェッション、大正4年(1915)市電道路として架設。
西浜町を囲む運河、鼬川に掛かっていた橋。
鼬川は昭和期に埋め立てられたが、この芦原橋、実は南海電鉄汐見橋線下十三間橋梁として現存しているらしい(!)

忠魂碑
碑は大砲を、周囲の欄干は砲弾をかたどっている。

環状線の高架橋。閑散としている。

環状線の美しいトラス橋。

公共工事のおぞましい砂漠の様な芦原橋で唯一のオアシス、芦原橋駅前の太鼓店。正確には旧穢多役人村から外れているのだが、昭和6年西浜にて創業とあるので、同和事業によって戦後強制移転させられたのだろう。これからも末永く偉大な旧穢多村の産業を守り続けてほしい。

店先に展示された布団太鼓。
布団太鼓は大阪発祥、瀬戸内文化圏の神輿で、19世紀前半に現在の形になった。上の布団は神輿の神が祭りの間睡眠するためのものである。神さんの寝床という発想や、ふざけたデザインセンスが非常に大阪的。
近世、穢多村は船場・坐摩神社の氏子として認められず、お祭りの際、村を囲む十三間堀川の川端で布団太鼓を叩くのみであったが、近代に入り船乗り込みによる参加が許されたとの事。京都・崇仁の船鉾を想起させるエピソードである。

如何にも和太鼓っぽいセンスの厳ついハイエース。

売上高1.2兆円、国内首位、世界8位のミートパッカー、日本ハムのビル。日本ハムは現在西梅田に本社があるが、かつては旧穢多村に隣接する大国町に構えていた。
この様に食肉会社、皮革を用いるスポーツ用品企業の多くが大阪と周辺に本社を構えるのは近世穢多役人村あるいは近代西浜町の過去の栄光の残滓である。
しかし「被差別部落」=食肉というイメージがあるが、日本で食肉習慣が大々的に広まったのは明治以降なので後発産業である。1939年に津守で建造され戦後南港へ移転した大阪市立屠場の名残であろう。

在りし日の旧穢多村を彷彿とさせる太鼓屋や毛皮問屋、履物問屋が集中する大国町。
ここは近世単なる農村であり、穢多村でも何でもないのだが、近代以降、隣の西浜町の経済発展と膨張によって問屋街と化したのである。しかしここも同和事業の指定地区となっていたのだ。この役所による指定がいかに史実に基づかない恣意的な代物であったかが判るだろう。要するに大国町は補助金狙いででっち上げられた元ニセ部落である。大阪・京都にはこの種のニセ部落が沢山ある。
しかし異常な公共工事によってゴーストタウンと化した本物の旧穢多村よりもまだ商業地として往時の活気をよく伝えている。
大国町は近年その利便性から、府外からの引っ越し先として都心の人気エリアとなっている。

