安立(あんりゅう)と紀州街道の街並み
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住吉大社を紀州街道沿い南に下った大阪市住之江区安立の街並み。
難読地名の安立(あんりゅう)とは宮中や後に徳川将軍家御典医を務めた半井家一族の名医で、従五位下の位を有する貴族であった半井安立軒元成(なからい・あんりゅうけん・もとなり)が桃山時代に居住していたことに因む。永らく住吉大社宮司家の津守氏の領地であった。
詳細は不明だが大阪と堺を結ぶ、かなり繁栄した郊外の街道町だったらしい。非常に立派な大阪式ファサードの町家が連続して残っている。
関西の古い私鉄駅前でよく見られるタイプの住宅建築で、町家的意匠を有するが町家ではない。駅開業の明治40年以降の建築。恐らく大正-昭和初期の数寄屋建築だろう。
土蔵屋根の丸いくりぬきは大阪・摂津国の土蔵独特の意匠で、京都を含む他所では殆ど見られない。
戦後建築かもしれない。
どう見ても近世-明治初期までの古い造りである。
市内の古い建物好きなら判ると思うが、この古さでこの規模の町家は大阪市内に殆ど現存しておらず、極めて希少な物である。
大壁、本瓦葺、大阪出格子という極めて大阪色の強い意匠。間取りは農家風かもしれない。
まさに近世そのままである。
近世大阪を舞台とするドラマとか映画は是非安立でロケすべきだろう。
明治期に行政区分が大阪府となった富田林のような旧河内国や岸和田の様な旧和泉国では近代の町家では大阪の町家と近いものもあるが、やはり本来別物で各国独自の伝統様式があるのである。大阪都心から地理的にかなり離れた旧摂津国兵庫県伊丹の町家の方がはるかに大阪的なのは興味深い。
安立の町家意匠は非常に大阪色が強い。
100%近世大阪風である。
なぜ大阪式意匠が重要かというと、本来こうした町家の規範、モデルであった大阪都心、船場・島之内の町家が北船場地区の一部を除いてほぼ壊滅してしまったからである。
こうした京都以上に素っ気ないシンプルなファサードこそが、近世日本経済の中枢を担った大阪商家の町家の特徴である。それは恐らくこの街の経済を主導していた商家が淀屋や天王寺屋、鴻池、加嶋屋の様な両替商であったことに由来する。現在で言う大銀行、証券会社、経営コンサルタントの本店建築である。ごちゃごちゃした装飾は非合理的でムダであり、威厳を損なう物と見做されたのだろう。
加えて天領であったため幕府の極端に厳しい建築規制が適応されていた。
上方の洗練、みたいなものもあったのかもしれない。
なぜ大阪出格子と呼ぶのかよく判らないが、間口一杯に商品を陳列し集客を促すような店売りに適さないタイプの格子である。
従って両替商とか仕舞屋のような事務所建築あるいは資産家の住宅建築として大阪都心に大量に設置されたために付いた名前ではないかと思うのだが如何に?
一寸法師ゆかりの地となっている。商店街のhpによれば近世安立には三栖屋(みすや)新右衛門等針商人が多く店を構え、一寸法師鬼退治の伝説をを針の宣伝に用いたとのこと。
結構廃れている(笑)。
個人商店よりも便利で品揃え豊富でいらん挨拶も気兼ねもしなくて済むので、ここで買い物をすませる人が多いということだろう。
個人的には全く悪いことではないと思われる。多分このスーパーが無ければこの商店街はもっと廃れていたはずなのだ。
木製物干し台がある。
恐らく100年近く変わることの無い風景である。
これより紀州街道を北へ上り住吉大社をめざす。
名前の由来は大和川付け替え工事と新田開発による海岸線西方移動以前の江戸時代中期まで海辺の松原があったことによる。
天武天皇の皇子、長皇子の「霰打つ あられ松原 すみのえの 弟日おとめと 見れど飽かぬかも」のとして万葉集の和歌にも登場する。
こういうけったいなうだつは大阪府周辺独特である。
しかし建築様式から元々は住宅だったはずである。
関東では極めて頻繁に見られるが、大阪では私が記憶する限りこれ一棟しか見たことが無い。