河内国分本町の街並み
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大和川と奈良街道に面する河内国分は古代より首都奈良から大阪湾へ出る交通の要所であった。国分の由来は8世紀聖武天皇によって整備された河内国分寺にちなむ。
今日の河内国分本町の街並みを形成するに至ったのは大阪-奈良間を結ぶ輸送船、剣先船の拠点になったことによる。1639年国分村伊右衛門は幕府大坂町奉行所の認可を得て28艘の剣先船を就航した。
1644年には35艘となっている。剣先船の船籍別艘数は1646年の段階で大阪150艘、国分村35艘、石川村18艘、古市村8艘、計211艘である。その後大阪の幕府特権豪商、尼崎又右衛門の剣先船業参入(新剣先船)、大和川架け替えによる物資輸送増大により剣先船輸送ラインは膨張、1752年には全体で約300艘に及んだ。
国分村の剣先船は大阪-国分間の輸送を担当した。滝のある国分近郊・亀が瀬より上流→奈良までは、剣先船よりも小型の魚梁船に積み替えられた。
輸送内容は大阪→河内・大和行が干鰯、油粕などの肥料、河内・大和→大阪行が年貢米、河内木綿などの農産物であった。
国分は剣先船の荷揚げ港として問屋・宿場が集積し在郷町として繁栄した。奈良街道沿いにかつての繁栄の残滓が残る。
個人的に小学校低学年まで住んでいた場所なのだが四半世紀近くほとんど風景が変わっていない。
交通の要所だけあって建築様式にもさまざまな周辺都市の影響がみられる。
敷地の大きさもさることながら、二階が低く建築様式も古そうである。資料が無いが江戸後期はあるのではないか?重文級である。
素晴らしい。
この前の団地の公園に移動図書館の車が来るのを楽しみにしていたのだが、いまでも来るのだろうか?
のふもとにある神社。
奈良-河内の周辺はかつての首都圏だけあって古代遺跡が掃いて捨てるほどごろごろある。考古学ファンにはたまらない立地だろう。
歴史は意外に新しく創建は鎌倉時代らしい。社宝の漢鏡3面が重文指定。
泉州と違い屋根の上でぴょんぴょん跳ねまわったりはしない。
剣先船就航から数十年が経過した1666-1685年に建造された。宗派は浄土真宗。
昔本堂内で文字通りの寺子屋があってお菓子目当てに行った記憶がある。夏祭りは墓地で肝試し大会があったがいまでもやっているのだろうか?
小学校低学年で北摂の住宅街へ引っ越したのだが所謂「住宅地のイメージ」の馬鹿らしさには辟易させられる。河内といえば馬鹿にされ北摂といえば高級住宅街扱いになるのだ。
北摂には古代遺跡も、近世初期の巨大な寺院建築も、重文級の町家も、自然科学的興味を掻き立てられる雑木林も歴史も何もない。要するに高尚な文化の香りに欠けている。別に北摂は好きだし、今でも住んでいる。しかし一体どこがどう河内国分と比べて「高級」なのか、まともな説明ができる者がいればしてもらいたいものだ。
かつて剣先船が行きかっていたのである。
国分のある柏原市は近代以降有数のブドウ産地である。
河内国分が水上交通輸送の要所としての役目を終えてからすでに100年経つが、旅籠の宿泊客はいるのだろうか・・・・・・・・・?