2011年 11月 14日
鴻池新田会所
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竣工年:主屋/宝永4年(1707) 表長屋門/明治41年(1908) 裏長屋門/安政5年(1858) 文書蔵/天明6年(1786) 米蔵/享和2年(1802) 道具蔵/天保15年(1844) 乾蔵/天保15年(1844) 支配人居宅/嘉永6年(1853)以前 火の見小屋/明治14年(1881)
設計施工:主屋座敷棟<宝暦9年(1759)>/大工棟梁・下村七右衛門、他
宝永4年(1707)、大阪・今橋の豪商、鴻池善右衛門家が開発した新田の会所が旧鴻池新田内に残されている。この会所の役割とは
・小作人からの小作料、肥料代の徴収、収納
・新田内のインフラ管理
・幕府への年貢上納
・幕府代官の接待
・宗門改帳(=戸籍)の作成、管理
・老人への米(年金)の配給
・幕府、鴻池家からの指示伝達
・新田内の裁判
・村民の娯楽、浄瑠璃、俄狂言などの披露
などであった。
鴻池家の別荘としても使用されたようだ。しかし業務空間での奢侈を嫌う家風から、茶室設置案は度々却下され結局茶室が設けられることはなかった。これは同じく船場豪商による会所建築である、加賀屋新田会所(1745)の印象と著しい相違を成している。主屋の座敷棟部分はは内部、外部ともに数奇屋建築といえるのだろう。しかしその装飾的要素は抑制された。華やかな郊外の数奇屋ではなく、冷たい威厳のある大阪船場の豪商町家の内部意匠を連想させる。

明治41年(1908)築なので近代建築である。

山は両替商がよく用いた紋で、同じく大阪両替商起源の野村證券は今も山を社章としている。























これがもし京都圏であればより繊細で軽い感じに仕上げるだろう。
近畿圏外であれば変則的で崩れた装飾になる。

本当の金持ちはごちゃごちゃした細工は好まないものである。





かつては生駒山を借景にしていたのだが、現状は高層マンションしか見えない。








近世河内は綿作が盛んだったが、近代に入り中国の綿花が流入、壊滅した。結果、収入を絶たれた多くの河内木綿農家の娘が売春婦として大阪の遊郭に売り飛ばされた。




鴻池新田から淀屋橋まで今日の電車で行っても30分かかる。天保8年(1837)鴻池本家は大塩平八郎によって実際焼き討ちになっているが、小作人が駆けつけたとしても着いた頃にはすでに本家は丸焼けになっていたに違いない。
要するに実質的に意味を持たないのだが、主家と奉公人という封建主義的な思想から設置されたのだろう。
<会所周辺>

マッカーサーの農地改革により、新田内の農地は没収されたが、商業地・住宅地は今日に至るまで鴻池家の資産会社が保有している。







by kfschinkel
| 2011-11-14 20:14
| 河内国(富田林市、東大阪市等)

