飛田新地 廓 百番(現 鯛よし百番)
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飛田新地 廓 百番(現 鯛よし百番)
竣工年:大正7年(1918)頃
設計施工:宮大工複数名
今も現役の遊郭、飛田新地にある大楼、廓百番の遺構。飛田新地設置当時からの貴重な建築。現在は鯛よし百番という料理屋となっており内部を見学ことができる。
平面プランは中庭をロの字で囲み多数の小部屋に区切った遊郭・料亭独特の間取りを示す。階段が複数あるのは客同士鉢合わせさせないための特殊設計。複数の宮大工に腕を競わせて建築された。本二階の非常に狭い渡り廊下は現存唯一の揚屋建築、角屋(1680年ごろ 京都・島原廓)と共通する。
しかし何と言っても強烈なのが、雲助の刺青まがいのおぞましい内部装飾で、当時の飛田新地顧客たりし下層民の嗜好が反映されている。こうした装飾の題材は日本の古典の主題から採用されている。
飛田新地の街並みはこちらを参照。
<飛田新地の歴史-近代>
その独特の街の雰囲気から、全く不当にも飛田新地は雑誌やらネットで無法地帯呼ばわりされている。
しかしこの大都会の不夜城の創造主はやくざやごろつきではなく当時日本最大の証券街・北浜の白いシャツを着たブルジョワだった。明治45年(1912)、ミナミの難波新地が火災で焼けるや否や阿倍野界隈の田畑が移転候補として噂され、土地投機ブームが起きた。内務官憲による売春街の市外追放の意志、そして工業化によって農村から都市へ集中し始めた下層民の人口増加に伴う買春需要増大がその要因である。この飛田バブルには住友吉左衛門男爵のような財閥総帥までもが首を突っ込んだが、勝利したのは当時北浜の有力投資家で銀行家の高倉藤平であった。周辺では反対運動が起きたが、金融財閥の金力と政治力の前になす術を知らない。高倉の設立したディベロッパー、阪南土地建物会社・大阪土地建物会社によって計画的・一体的に開発されたのが飛田新地である。大正5年(1916)創立当初の飛田新地の写真を見ると廓百番と同じ意匠の遊郭建築が整然と並んで見える。難波新地から焼け出された貸座敷業者はこの大手不動産会社から土地・建物を賃貸して「事業」を再開したのだった。
伝統的犯罪組織とは無縁の、この一点の曇りも無い近代的・合理的な生い立ちが今日の飛田新地の姿に影響しているのだろう。この近代ブルジョワの土地投機によって生み出された売春街の戦後から今日に至る後見人とは、恐らくは国家警察である。
<飛田新地の歴史-現代>
戦前、売春は誰はばかることのない合法的な営利事業であった。しかし昭和33年(1958)売春防止法制定により犯罪となるかに見えた。しかし「料亭の仲居」との「自由恋愛」としての性交を認めるという詭弁によって飛田新地は復活した。売春防止法は賭博関連法や憲法第9条と同様、歪んだ法解釈によってその存在意義を喪失したのである。そして法の適応は法律成文自体から法の執行者たる警察の裁量へと移行し、法の支配は終焉したのであった。余り確証のある文献とはいいがたいのだろうが(そして確証ある文献など日本では出版されえないだろうが※)「潜入ルポ ヤクザの修羅場 」(文春新書)において飛田新地の存在保証はパチンコ産業と同様、暴力団ではなく警察によるという報告がなされている。極めて清潔整然とした印象を与える飛田新地内には、悪質ぼったくり店もやくざ事務所も存在しない。そして広域指定暴力団・会津小鉄との地縁が濃厚な京都・五条楽園の警察弾圧による崩壊と今日の飛田新地の繁盛ぶりの対照こそ警察権力との親和性の客観的裏付けとなるのだろう。これは何も飛田に限ったことではなく、全国のソープランド(売春浴場)街なりアダルトビデオ産業でも全く同様の現象が起きているのである。
※2011年11月に包括的かつ実証的な飛田新地に関する本「さいごの色街 飛田」(井上理津子 2011 筑摩書房)が出版された。
有職文様まがいだが完全にイカれている。
完璧なアールデコ様式で1920-30年代の物であることが明白である。
もうどうしようもなく気持ち悪い意匠で、遊郭か御殿建築くらいにしか無い物だろう。
ここの意匠は全て古典から題材を採用している。
醜悪だが明らかに日本の正統な建築意匠を継承しているのが判るだろう。
中庭を中心にロの字型の建物で、小室を区切った典型的な遊郭建築であることが判る。
これは石造風外観の2階内部。
明らかに戦前、遊郭時代の調度品で、枕元に置かれていたのだろう。
避妊薬やコンドームの未発達な時代に避妊のため売春婦の女性が膣内の客の精液を洗浄するための部屋で、遊郭建築にはよくある部屋なのだという。
それでも妊娠した場合は堕胎するか、生まれた子供は母親同様「商品」となったらしい。
ここで働いていた女性の多くは貧窮した家族によって売り払われ、売春に強制従事させられた人身売買の被害者である。
抗生物質の無かった戦前には致死的な性感染症、梅毒により多くの女性が脳炎となって命を落とした。
室内装飾の薄い分、ここでかつて行われていた事実、人権蹂躙の冷厳さに戦慄させられる。