阪神間(灘・住吉・御影・芦屋・西宮・宝塚)の近代住宅建築群
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竣工年:明治30年代ー昭和初期(1890-1930年代)
今日の大阪なり関西なりの経済・文化とは1930年代以前の時代の産物の残り滓に過ぎない。我々大阪人はどつき漫才やたこ焼きのような「低俗」なものから、かつての在阪大企業の登記上本店が入居する超高層ビルや伝統芸能の様な「高級」なものまで、過去の遺産に依存し、自己売却しながら経済的にも精神的にも自らを維持している。例えば全体主義的な日本のマス・メディアにおいて九州とか東海、関東などの地方方言は恥ずべきタブーだが、関西人のみが、道化や芸妓、下層民、犯罪者の役柄に限って堂々と関西弁で演じることが許される。この怪現象はかつて富貴の代名詞であった近畿圏言語・文化に最期の陵辱を加える見世物を見たがる日本大衆のサディズムの結果として説明されうる。換言すれば、零落した昔の金持ちの男に乞食芸をやらせるのは大衆にとって面白い見世物なのだ。
では歴史の転換点となった1930年代の関西とはいかなる世界であったのだろうか?失われた時代精神を知るには経済・社会学的な統計よりも優れた小説が包括的に語っているように思われる。なぜなら優れた小説とはある時代なり個人を多元的に照らす光のプリズムのようなものだからである。1930年代の関西の栄光の終わりと没落の始まりを映し出した第一級の小説は谷崎俊一郎の「細雪」である。この小説の主な舞台は当時の経済の中枢都市・大阪ではなく、阪神間・芦屋であった。
<阪神間の歴史>
今日、郊外住宅地として知られる阪神間地域は近世、酒造業者と石切り場(花崗岩の別名、御影石は神戸市東灘区御影の地名に由来する)が点在する人口過疎地域に過ぎなかった。この僻地、住吉・御影に邸宅を構え、大阪へ通勤することを始めた最初の一人は、大阪朝日新聞(現 朝日新聞)社主、村山龍平で、明治33年頃の事である。この時彼の周囲は村山を変人呼ばわりした。それはまだ多くの大阪の富豪が自分の店に自分の従業員と一緒に住むという職住一体のライフスタイルを守っていたからである。しかし明治38年には日商岩井の岩井勝次郎が、明治41年には日本生命の弘世助三郎が、以降多数の大阪・神戸の豪商、資本家達が明治末-大正期に住吉・御影地区に豪邸を建造した。これが阪神間の住宅地としての歴史の始まりである。
大阪から郊外へ豪商、資本家が移転した理由は職住一体の生活システムが業務拡張等の理由で維持不可能になったこと、近世の因習と過密な生活からの開放を望んだこと、近代工業化による公害の問題があった。
明治末、住吉・御影に始まった阪神間の住宅開発は大正・昭和初期に灘・芦屋・西宮・宝塚といった周辺地域へと膨張していった。阪神間が北摂、上本町、帝塚山、浜寺など他の候補を抑えて関西郊外住宅地を代表する地域となりえた要素は神戸-大阪間で既存交通網が整備されていたこと、人口過疎地帯で好きなように開発できたこと、地形が起伏に富み見晴らしが良いこと等が挙げられるのだろう。開発者は蓄積された富の投資先を欲していた大阪の豪商・資本家、あるいは沿線に利権を持つ鉄道会社である。
前者の例として甲東園、香櫨園、苦楽園、雲雀丘花屋敷、甲陽園などが挙げられる。しかしその典型は大阪・老松町の富豪で河南鉄道社長、百三十銀行頭取を務めた内藤為三郎による昭和4年(1929)、阪神間最末期の開発となった芦屋・六麓荘である。六麓荘は開発者、開発コンセプト、共に戦後大衆社会とは異質な特殊過去の世界に属しているがゆえに、今日独特の印象を受ける。すなわち大ブルジョワによる大ブルジョワのための大ブルジョワの土地開発である。イギリス領・香港の白人居住区をモデルに道路舗装、上下水道都市ガス整備はおろか電柱埋設とし、300-1000坪の区割りの宅地には宮殿まがいの豪邸が築かれた。そして公共空間として人工河川の偽物の自然を築き、遊園地、超高級ホテルが付設された。日本の住宅土地開発史上、豪華さにおいてこれに凌ぐものは過去にも、そして未来にも無かった。
真に「我々の世界」の未来を啓示したのは鉄道会社、阪急とそれに続く阪神による大衆向けの土地開発であった。阪急社長小林一三はすでに明治43年、北摂・池田市室町において日本で最初の下層中流階級(つまりサラリーマン)向け郊外住宅地を成功させていた。サラリーマンが自らの雇用者たる大ブルジョワの近くに住み、彼らのような生活をしたがっているのは明らかだったから、一方神戸-大阪を結ぶ鉄道会社はより多くの乗降者が沿線に住んでくれると儲かるから、だから阪急が阪神間に既製の小さな戸建て住宅を計画的に沢山建てたのは当然の成り行きであった。阪急が開発した岡本、塚口、西宮北口、武庫之荘には今も当時のサラリーマン向け数寄屋邸宅(現代人の我々の眼にはこれですらも豪邸に写る)が少し残っている。その影響は関西圏の域を越え日本全国に伝播し現在に至る。例えば大正期・東京では田園調布が「中流以下の勤め人に適した貸家」を造成するために開発された。
小説「細雪」において主人公、蒔岡雪子は大阪・船場の木綿問屋に生まれ、芦屋に移り住み、華族崩れのサラリーマンとの結婚が決まり上京する場面で終わる。あの長編小説で繰り広げられた白夜夢のような1930年代の阪神間での優雅な暮らしは階級社会から大衆社会の移行期における近世大阪の旧支配階級の安楽死的間隙だったのだろう。そこにはかつての大阪船場豪商の窒息するような義務や因習も、未来の下層中流階級が抱える孤独や失業不安もなかったのである。蒔岡雪子に子供が生まれていたとすれば彼女ないし彼はもはや豪華小説の主人公とはなりえず、大都会の雑踏の群衆の中に消えただろう。
戦後、サントリーの鳥居家や竹中工務店の竹中家といった例外を除く阪神間の大ブルジョワのほぼ全ては自社株式の大半を失った。創業家のくびきから解放された大企業の多くは本拠地を大阪から東京に移した。阪神間にあったかつての豪邸の多くは取り壊され、マンションやマッチ箱のようなサラリーマン向け戸建て住宅に分割されている。
<阪神間の生活と建築>
阪神間において現存する豪華な近代住宅建築は住吉・御影と六麓荘に集中している。とりわけ巨大な洋館が目に付くが、多くの場合そこに人間は住んでいなかった。洋館は純粋に応接のための空間として造られたのである。いわば巨大な応接間である。洋館の横にこれまた巨大な数寄屋建築があり、さらにその一部分が主家並びに侍従の居住空間に充てられた。他はやはり自らの権威を示すための接待空間であった。
さらに必ず茶室が付属する。近代豪商・資本家の社交場はゴルフ場などではなく茶室であり、茶道は嗜まなくてはならない義務であった。今日、阪神間にはかつての大ブルジョワの子孫が設立した私設美術館が多数あるが、収蔵美術品のほとんどが抹茶道具あるいは煎茶飾り用の中国美術品、つまり社交のための茶道具であった。
<参考資料>
関西人の正体 小学館 1995 井上章一
細雪 中央公論 1983 谷崎 潤一郎
阪神間モダニズム 淡交社 1997 「阪神間モダニズム」展実行委員会
煎茶・美とそのかたち 1997 大阪市立美術館
かつてスペイン領だったアメリカ西海岸で流行った様式でヴォーリズの十八番。
戦後日本の税制ではこの規模の個人邸は存続できないのだろう。文化財の所有者は免税にすればいいのではないかと思うが・・・
ちなみに日本や中国とは異なりヨーロッパの宮殿や豪邸は塀で家本体を隠すことは絶対にしない。自らの権勢を塀ではなく建築ファサードで見せ付けるのである。東西文化の違いである。
規模・建築スタイル共に典型的な阪神間の豪邸だろう。