2009年 08月 03日
鴻池組本店(現 鴻池組技術研究所伝法研究室)と伝法の街並み
|

明治43年(1910)
設計:久保田小三郎
内部意匠:相原雲楽
これは大阪では希少な明治期の洋館を付属する鴻池組の店舗兼住宅。
本社事務所であった木造洋館はその後多く造られるウィーン分離派(ゼツェッシオン)の中でも初期の作例。小規模ながら意匠の簡略化は徹底している。ここから設計者は歴史的様式の解体というゼツェッシオンの目的を本質的に理解していた可能性がある。
(片岡安や松井貫太郎といった当時のより著名な建築家達は恐らく理解していなかった。彼らの作品の簡略化は歴史的様式との折衷で、単にヴィーンの流行の表面をなぞった真似事に見える。)
内部は彫刻家、高村光雲の弟子、相原雲楽の手になるアール・ヌーボーの内装がある。ゼツェッシオンやアールデコ、ドイツ表現主義、モダニズム等、他の新興芸術運動のものと比べて、アール・ヌーボーは日本の建築では極めて稀な建築スタイルである。しかし残念ながら内部非公開。
一方居住棟の和館は通り庭(土間)に沿って居室を二列に配する典型的な大阪の町家建築。ファサードも明治期の大阪町家でよくあるスタイルとなっている。しかし一階の出格子が残っているのは非常に珍しい。
総じて言える事は、職住一体の伝統的な町家形式に本格的な西洋風の建築意匠を持ち込んでいるということである。これこそ近代大阪の都市建築の特色を示している。近世商人から真に影響力のある近代資本家に転換できたのは、三井(越後屋)や住友(泉屋)、伊藤忠(紅屋)や武田(近江屋)といった京阪の一部の豪商だけだった。彼らは欧化一辺倒の明治政府とは異なり、新しい西洋のスタイルと自らの伝統様式を並立させ、主張するだけの柔軟性と自尊心があったのである。
鴻池組は尼崎の侠客、博徒の鴻池忠治郎が明治の初めに大阪・伝法で起した海運、建設業者。荒くれ者の肉体労働者を組織するゼネコンはこうしたヤクザに起源を持つ会社が多い。親族の国会議員が山中鹿之助の子孫を自称していることから当時屈指の金融資本家、鴻池善右衛門男爵家を真似て付けた屋号・姓かもしれない。

大阪出格子と重厚な軒の出漆喰塗り込め大壁がいかにも大阪的な和館の町家。
当主鴻池忠治郎の本邸である。


袖うだつ。








<伝法の街並み>



味のある商店。

ちょうど夏祭りの準備中であった。

長屋。


伝法の長屋とよく似ている。


















by kfschinkel
| 2009-08-03 23:27
| その他大阪市

