旧寺内町 富田林の巨大町家建築群Ⅱ (※大阪府富田林市)
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綿屋(杉山)長左衛門家本邸(現 旧杉山家住宅)
竣工年:17世紀中期-延享4年(1747)
設計施工:不詳
佐渡屋(仲村)徳兵衛家別邸(現 勝間家住宅)
竣工年:幕末(1853-1869ごろ)
設計施工:不詳
富田林の町家では旧杉山家住宅と勝間家住宅の2件が公開されている。
これら2つは竣工年代こそ異なるがいずれも田の字型の農家風間取りに都会的な数寄屋風装飾が付属している。
この特性は戦国期、地元の有力者によって一向宗の自治都市として生まれ、幕藩体制化に大阪経済圏に飲み込まれて在郷町となり、最終的にベットタウンの一つとして解消していった富田林の成り立ちと関係するのかもしれない。
旧杉山家住宅ではは元禄文化華やかなりし、17世紀中期から18世紀にかけて建造された絢爛な意匠が見られる。この時代の文化の中枢であった畿内の商家の雰囲気をよく伝えている極めて希少な例証であることが判るだろう。
勝間家住宅では個人所有のまま公開されているので、調度品など近世末期から近代の富裕な商家のありさまをin situで俯瞰することができる。
<綿屋(杉山)長左衛門家本邸>
間口が広いのは当然であるが、一階階高が入り口に対して異常に高い点に注目。
長屋門のような威圧感がある。
増築を幾度と繰り返した杉山家の屋敷でも最も旧い部分で17世紀中期築である。
普通町家が行政の管轄に入ると、真っ先にこうした生活臭のする民具は排除されてしまうが、あえてこれを残した富田林市の担当者はなかなかセンスが良い。
煙返し梁が農家建築の特徴を示している。
鰻の寝床型の敷地に建つ都心町家の通り庭(土間)ではこのような梁を設置することは不可能。
鴻池や越後屋(三井)、泉屋(住友)等、江戸初期創業の豪商は大抵敗残して失業し、金儲けの世界でリベンジしようとした元戦国武士であった。綿屋(杉山)長左衛門家のルーツもやはり武士なのであろう。
障壁画は文化文政期(1804-1829)に狩野杏山守明によって描かれた。
小屋束の墨書から享保19年(1734)に増築されたことが明らかになっている。
違い棚、床の間の横に付書院がある変則的な構成となっている。付書院はもともとその名の通り書斎で、後に形骸化し、床の間の明り取りのようになってしまった。
よってこちらのほうが機能的には正しい。
竹のスノコが渋い。徹底した数寄屋風である
残念ながら現在は使用禁止。
本質的に純粋の日本建築には壁は存在しないことになっている。
全て家紋あるいは女紋が入った極めて貴族的な工芸品である。
ちなみに黒塗椀は女性専用で、これは男性の「晴れがましい」朱塗椀に対して、「卑しく穢れた」性別の持ち物であったことを示している。
これはアール・ヌーボー・スタイルである可能性が指摘されている。
アール・ヌーボーは今日における知名度や人気の割りに、ベルギー・フランスですらたった二十年足らずで廃れた建築スタイルである。
アール・ヌーボーに全然関心を示さなかった英国建築の影響が支配的であった明治期日本においてはアール・ヌーボーの建築は鴻池組本店内装(1909 大阪・伝法)、松本健次郎邸洋館(1910 北九州)など数えるほどしか現存しない貴重なものである。
近世町家においてツシ二階は奉公人の寝床や倉庫として用いられた。
<佐渡屋(仲村)徳兵衛家別邸(現 勝間家住宅)>
畿内の富裕な商家らしい貴族的な雛飾りである。