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2020年 07月 27日
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by kfschinkel
| 2020-07-27 18:48
| その他大阪市
2020年 06月 25日
![]() 竣工年:不詳 設計施工:不詳 大阪府庁舎の背面にある謎のモダニズム官庁建築。 門柱は大阪府知事公館と共通の意匠。 今は亡き朝日ビルディングを思わせる尖塔が付属する。 意匠や立地からして恐らく戦前-戦後期に有力な建築家が設計したのであろう。 ![]() 門柱、塀は明らかに戦前の建築。 エントランスは微妙だが・・・・ ![]() アールデコ特有の尖塔がある。 ![]() 水平ラインが強調された窓割。 石造やレンガ造の組積式構造(地震国日本の西洋風建築では意外に無い)では不可能な窓割で(構造上縦長窓にならざるを得ない) 1920-30年代、RC造モダニズム建築に多用された意匠。 ![]() 同上。 ![]() 設計者の鋭利な感性が表れた、異常に斬新な小窓と外階段。 3千年続いた因習的な欧州歴史的様式を撲滅するという気概や緊張感の様な物が戦後の建築家から消えてしまったために、 戦後のモダニズム建築は惰性とマンネリで全く面白くないと感じるのは私だけだろうか? ![]() 同上。 ![]() この辺りは戦後っぽいが・・・・ ![]() 植え込みの老木が歴史を語る。 こういう風景はすっかり消えてしまった。 ![]() 同上。 ![]() 大阪府庁背面の建造物。 #
by kfschinkel
| 2020-06-25 17:42
| 上町(大阪城界隈)
2017年 09月 18日
![]() 竣工年:大手口多聞櫓/嘉永元年(1848) 千貫櫓/元和6年(1620) 焔硝蔵/貞享2年(1685) 設計施工:千貫櫓 /小堀遠州 今日残る大阪城は豊臣秀吉ではなく徳川幕府2代将軍徳川秀忠によって建造されたのである。徳川家はメンツ上、かつての天下人秀吉の大阪城跡に、秀吉の大阪城を凌駕する規模と壮麗な城を建造する必要があった。元和6年(1620)から9年3期に渡る天下普請によって完成したこの徳川大阪城は、石垣の高さ、二重に廻らせた堀割の長さで日本最大、近世日本城郭建築の集大成として新築された。以降東の江戸城と並び、250年間徳川幕府西国支配の象徴として君臨する。 しかしこの近世日本を代表する記念碑的建造物の真の施主、徳川将軍家は次第に忘れ去られ、太閤秀吉が建造した城として諸大名家の記録に残された。やはり大阪と言えば豊臣秀吉なのだろう。 近代に入り、陸軍省と陸軍第四師団の管轄に入り、軍用地となった。登記上大阪城の所有者は陸軍省のまま現在に至るという。 昭和34年(1959)、ようやく近代的な考古学調査によりこの城が徳川家によって秀吉の城の上に新築された物であることが明らかになる。 歴代城主は徳川将軍家。 しかし江戸城住の将軍家に代わり大阪城代が常駐し大阪及び畿内の支配、西国大名の監視等にあたった。大阪城代は徳川幕府の権力構造の中では将軍、老中、京都所司代に次ぐNo.4の序列ポジションである。 主要建造物の内、天守閣は建築後寛文5年(1665)たった39年で焼失後江戸城同様再建されず、巨大な将軍家本丸御殿、大坂城代屋敷も幕末の動乱で焼失した。 石垣と櫓、門、金蔵などが残り現在に至る。 ![]() 大手口多聞櫓 続櫓城内側ファサード ![]() 1628年に築後、1783年落雷により焼失し、幕末の混乱期、嘉永元年(1848)再建された大手口多聞櫓全景。現存する多聞櫓としては日本最大。 左が大手門大門を有する渡櫓、右が続櫓である。 国指定重要文化財。 すでに財政が破綻していた幕末の徳川幕府には巨大な大阪城を修復する経済力は無かった。 従ってこの大手口多聞櫓もまた、第九代鴻池善右衛門以下、大阪・堺・兵庫・西宮の豪商から御用金によって建造された。 この様な近世-近代の大阪を代表する記念碑的建造物の大部分は幕府や政府ではなく鴻池や加島屋、三井、住友の様な大阪とその周辺の近世豪商の資本によって建てられた。 やはり大阪は商人の街である。 ![]() 続櫓入口。 レンガの塀は旧帝国陸軍大阪衛戍刑務所塀。 ![]() 入口 ![]() 続櫓武者走り(廊下) 実際幕末には14代将軍徳川家茂が大阪城を拠点としここを通って本丸へ向かったという。 ![]() 同上 ![]() 窓を望む ![]() 大手門護衛の為の兵士が詰めた部屋 類似の姫路城の長局と比較すると軍事的色彩が強いという。 ![]() 続櫓、城内に侵入した敵を射殺するための銃眼。 ![]() 渡櫓 虫籠窓。 ![]() 同上 ![]() 渡櫓門(大手口大門)二階に相当する内部構造。 機能一点張りの松の梁組が見事である。 ここまで巨大な近世軍事施設の空間は有るようでない。 ![]() 同上 ![]() 同上 ![]() 同上 ![]() 余りにも巨大な空間の為松の梁は複数の部材を木組みで組み合わせて成立している。 ![]() かつての部材 ![]() 槍落としと銅板で被覆された虫籠窓 ![]() 素晴らしい空間。 ![]() 大手口多聞櫓より千貫櫓を望む ![]() 美しい塀 ![]() 左の櫓が大手口多聞櫓に続く千貫櫓 元和6年(1620)建造、大阪城内最古の建造物である。 二階唐破風が格式の高さを示している。 ![]() 千貫櫓入口 ![]() 千貫櫓内部 ![]() 千貫櫓階段 重厚な木の質感が素晴らしい ![]() 千貫櫓内部 ![]() 千貫櫓天井 古材がブスブス刺さっている。 ![]() 壁にも古材が懸けられている ![]() 千貫櫓横より城下を望む ![]() 大手口多聞櫓・千貫櫓から大阪城代屋敷跡を通って離れた場所にある焔硝蔵。 火薬庫である。貞享2年(1685)建造。 近世の焔硝蔵としては日本唯一の現存例で国指定重要文化財。 ![]() 焔硝蔵入口 約2.4mの壁厚に対して内部空間の幅も同じ約2.7m 落雷による大爆発後の再建であり、如何に防災に神経質であったかが判るだろう。 ![]() 花崗岩(御影石)によってのみ構築された見事な内部空間 このような近世石造建築は日本では希な例である。 ![]() 同上 ![]() 木造建築をそのまま御影石へ転化した意匠の石造梁 類似の建造物は現存せず、唯一の文化遺産である。 風雨による劣化・風化はほぼ皆無である。竣工時の設計施工が適切であったことが330年を経た今日に於いて証明されたこと、これは稀に見る光景ではないだろうか? ![]() ブロンズ製の扉 近世的意匠が素晴らしいの一言。
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by kfschinkel
| 2017-09-18 19:43
| 上町(大阪城界隈)
2015年 10月 16日
![]() 源光寺 設計施工:不詳 竣工年:文久元年(1861) 奇跡的に空襲や乱開発から免れた梅田都心近くの大規模寺院建築。 聖武天皇の命により行基によって天平十九年(747)に開山。その後荒廃し、承元三年(1209)に浄土宗宗祖法然によって復興。現在に至る。現在の堂宇は幕末の文久元年(1861)造。 ![]() 仕事帰りにぶらぶらしていてたまたま見つけた古建築。 現在はビル街になってしまっているが建造当時の幕末にはこの辺りは梅田(埋田)と連続する、田園と火葬場と墓場が広がる風景であった。 源光寺周辺の古称、「浜」は梅田、葭原、蒲生、小橋(おばせ)、飛田、千日と並ぶ近世大坂七墓の一つである。 ![]() 1861年築の本堂大屋根。 ![]() 本堂正面。 ![]() 同上。 ![]() 庫裏 ![]() 庫裏アップ。 重厚な意匠が非常に大阪的。 ![]() 天保年間の阿弥陀仏塔 ![]() 井戸 ![]() 正門 ![]() ![]() 石灯籠。施主が女600人というのが凄い。 ![]() 鐘 ![]() 塀は煉瓦製。近代の物であろう。 ![]() 同上。非常に古格があり素晴らしい。 ![]() 同上。 ![]() 源光寺隣の近代町家。この辺りは奇跡的に空襲を免れたようだ。 ![]() 源光寺向かいのコンクリート打ちっぱなしビルの案内板。 何と安藤忠雄の建築事務所であった。ヨーロッパの親戚も向こうでも滅茶苦茶有名と言っていたので正真正銘世界的建築家の一人である。こんな身近な所に本拠地があるのは意外であった。 ![]() 多くの安藤設計商業建築同様、テナント募集中である(笑) 昔勤務先が安藤設計のビルに入っていたのだが、壁が結露を起こしてカビが生えてかなわなかったとのこと。施主に裁判で訴えられたミース・ファン・デル・ローエなどと同様、デザイン優先で内部環境などどうでもいいのだろう。公共建築向けの建築家である。 ![]() ファサード。 ![]() 同上。 ![]() 源光寺と安藤建築。 ![]() 近所の安藤っぽいビル。 ![]() 同上エントランス。 ![]() 近所の庄屋建築。 彼らがかつて所有していたであろう、この辺りの土地は単なる田園だったのだが、今日の土地価格は天文学的数字になっているはずである。 ![]() 同上。洋館付属である。 ![]() 同上。 ![]() 横の庄屋屋敷。 ![]() 同上。 ![]() 天理教教会。 ![]() 工場を改造したと思われるブティック。
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by kfschinkel
| 2015-10-16 15:48
| キタ(梅田・堂島)
2015年 10月 02日
![]() 琴ノ浦 温山荘園(新田長次郎琴乃浦別邸) 竣工年: 大正5年(1916) 設計: 木子七郎 明治21年大阪で日本初の動力伝動用革ベルトを開発し、工業用ベルト生産によって一代で巨万の富を築き上げた近代日本屈指の富豪、新田長次郎の広大な別邸。本館設計は新田の娘婿で建築顧問の木子七郎。木子は日本最初期の壁式RC造建築を手がけたことで知られる大阪の近代建築家。欄間彫刻は高村光雲の弟子で、アール・ヌーヴォー室内装飾で著名な住友建築部出身の彫刻家、相原雲楽。作庭指導は武者小路千家家元名代三代木津宗泉。 自身科学技術者でもあった新田長次郎が設計に深く関与したらしい温山荘にはエンジニアらしいギミックに溢れている。RC造の基礎、新田の会社が開発した日本最初のベニヤ板で作られた玄関棟天井、半地下の本館ダンスホール、アールデコ欄間、伴待部屋の防犯用隠し部屋、人口岩の庭石、岩山を刳り貫いたトンネルとそれに続くプライベートビーチ、海水を池に引き入れボラが泳ぐ潮入池泉回遊庭園などである。 海と山の起伏に富む敷地は現状18,000坪なのだが、かつては周辺領域を含む50,000坪の広大さであった。個人庭園としては日本最大であり、恐らく近畿圏に残る近代邸宅としては最大規模である。 総じて大工棟梁ではなく建築家によってデザインされた近世以来の歴史的様式と、最新の科学技術、規模の壮大さの3点が融合した近代邸宅の特徴がよく現れている。 この別荘は新田の郷里、松山藩旧藩主、久松定謨伯爵来阪の際の迎賓館兼新田家別荘として建造された。久松伯爵の他に伏見宮文秀女王、桂太郎、清浦金吾、東郷平八郎などの皇族、華族、VIPが滞在した。東郷平八郎は「温山荘」命名者であり、海軍元帥らしくこの海に面した迎賓館を特に好んだ。当時の貴賓社交の迎賓館とは数日滞在などという代物ではなく、彼らの中には4か月に及ぶ滞在もあったという。 死後彼が新田が創立した株式会社ニッタ関連四社が設立した財団法人によって維持管理されている。ちなみに新田の富の源泉は紡績工場用の動力伝動革ベルトとその派生品であったが、現在の主力商品は自動車部品やスマホの画面フィルム、銀行ATMの札数え用ゴムベルトなどとのこと。 国指定重要文化財。 ![]() 和歌山の数少ない著名観光名所、和歌山マリーナシティ。温山荘のちょっと先にある。 というかここへ行くバスの途中でたまたま温山荘を発見したのである ![]() マグロ解体ショー。 人は多かったが思ったほど特色はなく、普通の観光地であった。 ![]() 温山荘園入口。 庭園入園料は400円なのだが100円プラスで元ニッタ社員の気さくな園長ガイド付で本館が内部公開されているので、絶対に100円払った方が良い。 受付の人に滅茶苦茶珍しがられ、どこから来たのかとか、なんで知っているのかとか尋ねられたのだが、どんだけ入場者が少ないのだろうか?日曜日であるにもかかわらず完全貸切状態であった。少なくとも和歌山マリーナシティよりは圧倒的に独創的で面白いと思うが・・・・ 私も趣味の問題上大概全国色々な近代邸宅建築には足を運んでいるが、質においても規模においてもギミックにおいてもここまでの代物はまずお目にかかることは絶対にないと断言できる。 ![]() 温山荘正門。 石ではなくコンクリート建築である。大正初期当時まだ新素材であったコンクリートは意図的に用いたものだろう。 ![]() アプローチ。 ![]() 本館玄関。 ![]() 玄関横にある。伴待部屋。 人力車車夫などが休憩する棟とのこと。 ![]() 伴待部屋内部。右のでっぱりには実は仕掛けがある。 ![]() 隠し扉を開けると賓客がテロリストから隠れるための隠し部屋となっている。 この隠し部屋は近年修復されるまで忘れられていたとのこと。 ![]() 本館式台玄関。 ![]() 玄関敷石は当時の新素材人造石。 人造石と聞くと天然石の代用品のようだが、大正時代当時は非常に珍しかったのだろう。近代産業資本家の別荘に相応しく、この本館には近世には無かった様々な当時最新の人口素材が登場する。 ![]() 玄関棟内部。 ここにも新素材が用いられている。どこかというと・・・・ ![]() 天井板である。これはただの一枚板なのではなく、新田の北海道の工場で開発製造していた日本最初のべニヤ板なのである。今の合板ベニヤと異なり、当時アメリカから技術導入されたベニヤ板とは無垢の板を革の膠で貼り合わせた非常に高級な素材であったのだそうだ。今でもこのタイプのベニヤ板がニッタ社によって高級車の木目ダッシュボード用に少量生産されているのだという。新田の会社は大正期工業用革ベルトの会社であった。膠は革産業の派生品である。 多分この玄関は自社製ベニヤ板を貴賓にPRする場でもあったのだろう。なぜなら天井板とは数寄屋建築においては最高のアピールポイントの一つなのである。 ![]() 玄関間窓より庭を望む。 ![]() 昭和十年代当時の図面。 今日でも旧個人邸宅としては日本最大の日本庭園なのだが、竣工当時の敷地は今の倍以上の50,000坪という恐るべき代物であったことが判る。隣接の県立自然博物館その他周辺領域があっさり含まれているのである。 手前のぬいぐるみは2015紀の国わかやま国体のマスコットキャラクター、紀州犬「きいちゃん」。 ![]() 床の間のある和風洋間。温山荘には洋館は無い。 ![]() 同上。 ![]() 極めて斬新なアールデコ欄間。 ![]() アールデコ欄間と調和がとられた棚。 ![]() テーブルセットは東郷元帥などが座った当時のままであるとのこと。 ![]() 床の間とテーブル。 意外にマッチしている。 右の紳士が園長。 ![]() ろうそくと呼ばれる床柱仕上げ。 素材は恐らく北山杉のしぼり丸太であろう。 このクラスの数寄屋建築には最高の素材がふんだんに用いられる。 ![]() 何の木かは忘れたが、非常に貴重な木材が使用された床板。 ![]() 洋間より眺める庭園。 ![]() 同上。 ![]() 新田家の家族にゆかりのある洋間襖絵。 ![]() 有線七宝製の襖金具。いかにも明治-大正的である。当時七宝細工は重要な輸出品であった。 ![]() 当時のままの西洋家具と来賓の写真。 ![]() 廊下にある1階(半地下階)入口。一見平屋純和風建築に見えるこの本館は実は下に階があり、台所やダンスホール、ビリヤード場などがあるのである。新田氏はこういった仕掛けが大好きだったのだろう。 ![]() 温山荘のメインホール、広間。巨大な空間である。 ![]() 同上。 ![]() 同上。 ![]() いかにも近代らしい数寄屋照明。 ![]() 欄間は中之島図書館や住友家須磨別邸などの内装を手がけた室内装飾家、相原雲楽の作品である。 ![]() アップ。いかにも高村光雲の弟子らしい明治っぽい作風。 ![]() 広間の床の間。 まるで演舞場の様な広さである。 採光の素晴らしさにも注目。 ![]() 巨大な床の間。 ![]() 採光のとれた廊下というより縁側。 ![]() 同上。 ![]() 縁側より広大な庭を望む。 ![]() 同上。 この様な光景は大阪市内や阪神間ではまず望めない。 ![]() 広間。 ![]() 広さの割に部屋数はかなり少ない。 この別荘にはこちゃこちゃした小部屋よりも広い空間の方がより深い印象をあたえるからだろう。 侍従部屋の様な補助的な部屋が本館ではなく別棟にあったのかもしれない。 ![]() 誰か忘れたが首相経験者か高級将校の扁額。 この様な扁額が温山荘にはたくさんある。 ![]() 庭より本館を望む。 ![]() 巨大な庭。 近世にはこの庭は紀州徳川藩の養魚場であった。 現在も池の水は汽水であり、泳いでいる魚は鯉ではなくボラなのである。 しょっちゅうボラが池を飛び跳ねている。 ![]() 分かりにくいがエサをもらえると思ったのか寄ってきたボラ。 ![]() 旧個人邸宅の日本庭園としては現存日本最大である。 ![]() 庭園の東屋。 ![]() 同上。 設計指導は庭園同様武者小路千家家元名代三代木津宗泉。 ![]() 内部は当然ながら茶室となっている。織部風のかなり大きな茶室である。 ![]() 大正初期には珍しかったコンクリートを用いた塀。 本館設計の木子七郎はコンクリート建築の第一人者であった。 ![]() 庭園。 ![]() とにかく巨大である。 ![]() 同上。 明治期の大名庭園同様芝生がある。 維持費は年間4000万円程度でやりくりしているとのこと。自治体がカチカチにやるより遥かに味わい深い。 もう和歌山マリーナシティではなくここでマグロ解体ショーをやればいいのではないか?そっちのほうが面白い。 ![]() 海側の風景。 新日鉄住金の工場が物凄く邪魔である。こういうゴミみたいな工場は景観規制で排除すべきである。 ![]() 反対側の庭園。 ![]() 同上。 ![]() 西日本最大という巨大な緑の石橋。 ![]() 橋を渡るとトンネルが現れる。 ![]() トンネルは磯の天然岩盤を刳り貫いて作られている。 ![]() 反対側出口。 ![]() トンネルの向こう側は新田家のプライベートビーチとなっているのである。 素晴らしい。 ![]() トンネルのある岩盤に張り付いているのが、温山荘で最も古い大正2年竣工の浜座敷。 醜悪な埋め立て前には海に突き出していた望楼である。 こんな田舎に埋め立てなどやって一体誰に利益があるのだろうか?出来た工場も大して経済効果などあるとも思えぬ貧弱狭隘な代物である。この種の役所が計画する画一的な海岸開発は景観と環境に対する犯罪であり、公金の無駄遣い以外の何物でもない。 ![]() 庭園より本館へ戻る。 ここにも偉い人の扁額。 ![]() 本館。 鉄筋コンクリート造の地階基礎があるのが判るだろう。設計者木子は当時RC造の第一人者であった。 ![]() 同上。 ![]() RC造階下にある旧ダンスホール。現状殺風景なのだが是非復元してもらいたい。 ![]() ダンスホールに置かれた大正期と思わしき古いテーブル。 ![]() 段差を生かした秘密通路の様なものもある。 非常に面白いではないか。 ![]() 同上。 ![]() 庭園には古そうな灯篭が多いが、これは幕末-近代の物だろう。 当時流行した煎茶道具に加えて、ハートマークのような透かしが入っている。 これはハートマークではなく葵の葉ではないかと思われる。和歌山は紀州徳川家の領地であった。 ![]() マリア灯篭とある。古田織部が考案したという灯篭スタイル。 一般に隠れキリシタン由来とされるのは胡散臭いものが多く格子があれば十字架、観音とか母子像があればマリア観音ということにされてしまうのである。 ![]() 石でできたタヌキ。潮風によって風化して首が取れているのもあった。 ![]() むくりが美しい本館屋根。 ![]() 温山荘創設者、新田長次郎。 現状中堅素材メーカーであるニッタからは想像もできないが、住友、鴻池、藤田、野村に次ぐ近代大阪屈指の大富豪であった。当時の長者番付では武田や伊藤忠、サントリーの創業家よりも上位にランキングされている。その背景には大英帝国マンチェスターを凌ぎ世界最大の紡績産業の中心地となった近代大阪の紡績業の殷賑があった。新田は紡績機械の工業用ベルトを独占的に生産していたのである。 ![]() 本館工事中の写真。 のどかな海岸に突如出現した巨大建造物に当時の人々はド肝を抜かれたことだろう。このような巨大なブルジョワの別荘は後にも先にも日本に建てられることは無かったのである。 <温山荘近隣市街散策> ![]() 温山荘向かいの民家。ここも昔は温山荘の敷地ではないかと思われるが。 ![]() 旧市街が近くにあるようなので散策することにした。 ![]() 歩いて10分くらいの所にある旧市街の町家。この辺りは昔漆器が名物でここも漆器問屋である。 ![]() 近代洋風建築。郵便局か工場の事務所なのか? ![]() 手作りのアーケードのある商店街(?)。 ![]() 同上。 ![]() 商売やる気のない果物屋(笑)。 ![]() さらに先へ進むと漆喰塗の立派な町家がいくつかあったらしいのだが、事前に何も調べていなかったのでそのまま和歌山市内へ退散してしまった。 <和歌山市街散策> ![]() 和歌山市街は米軍の爆撃によって壊滅し、古い建造物が余り残っていない。これは大正-昭和初期と思われる希少な町家の遺構。袖うだつの形状は大阪と似ているが、カクカクとした屋根や短い軒の出が和歌山的である。 ![]() 銅版張りの呉服商。これも和歌山らしい特徴がみられる。このような古い町家は残念ながら中心街には殆ど残っていない。 ![]() 旧花街の恐らく遊郭建築。 ![]() 和歌山市街では珍しい木造建築。 ![]() 戦災に耐えた花街の寺院。 ![]() 旧歓楽街の巨大なスナックのビル。 このような巨大風俗店ビルは大阪ミナミとか東京歌舞伎町にも無いだろう。しかも人の気配が全然ない。 かつて和歌山市は住友金属の企業城下町であり巨大歓楽街が形成されたのだが、工場規模縮小によって衰退してしまったのである。蓄積された資本を元手にこんなビルを建ててしまったのだろうが、ハコモノを建てても客は来なかったという顛末である。 こんなビルが和歌山市の旧歓楽街には大量にあるのである。ある意味日本の繁華街の黙示録的スポットと言えるだろう。 ![]() 同上。 ![]() イカす看板。 ![]() 大阪新世界以外で見たことが無かった、スマートボールの店。 ![]() 戦災で焼け残った耐火建築、土蔵。 ![]() これより歓楽街から商店街へ入る。 ![]() 和歌山の銀座。 ![]() 懐かしい雰囲気のおもちゃ屋さん。 ![]() 激しい品揃えの洋品店。 ![]() かつて紀州の豪商が軒を連ねたであろう本町通り。本町とは本町人のための通りである。 ![]() 長谷部竹腰建築事務所の後進、日建設計の手になる戦後建築の紀陽銀行本店。 レリーフがいかにもである。 ![]() バブル期に建造された地元老舗の旧丸正百貨店。ここはこの建造物の借金が原因で破綻している。 現在はショッピングセンター。 ![]() 旧丸正百貨店ショッピングセンターの鮮魚コーナー。他地域では高級料亭とか割烹でしか絶対お目にかかることのできない地元の新鮮な珍しい水産物が普通に平然と売られているのにはびっくりした。 和歌山がいつの日か観光産業で脚光を浴びるとすれば、恐らく水産物がKey Factor for Successとなるだろう。これらを調理する優秀な日本料理人は大阪や京都から引き抜けばよいのである。今は寂れているが相当ポテンシャルは高いと思われる。 ![]() ぶらくり商店街アーケード。 ![]() 紀州徳川家の和歌山城。 ![]() 南海和歌山駅前の空襲に焼け残った土蔵。 たまには遠出も良いものである。 #
by kfschinkel
| 2015-10-02 19:27
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