懐徳堂旧阯碑
揮毫:浪華中井天生
竣工:大正7年(1918)
愛日小学校(取り壊し)
設計:横濱勉
竣工:昭和4年(1929)
明治維新と幕藩体制の崩壊は、全国各藩の財政を事実上支配していた大阪北船場の本両替商の大部分を破綻させた。その内の一つ、仙台藩のメインバンクであった升屋は破綻の際、残余資産、土地を寄付し明治4年(1872)愛日小学校が設立された。
寄付された資産の中には升屋一族の収集した学術資料が含まれていた。一族の一員、升屋小右衛門(山片蟠桃)は生前卓越した手腕を振るった金融家であったが、今日ではむしろ哲学者として記憶されている。彼は今日では愛日小学校跡の御堂筋向かいに存在した学問所、懐徳堂の著名なメンバーであった。懐徳堂は船場の豪商達によって享保9年(1724)設立され、大阪領主の徳川将軍家から特権を与えられた官許学問所。儒教を起源とした科学的、合理主義的な学派を形成した。その内容からは近世大阪上層商人階級の思想、世界観を垣間見ることができる。
<幕藩体制と大阪商人-懐徳堂の背景>
徳川幕府開府の際、封建制に基づく幕藩体制が想定された。この世界においては世襲農民は農産物を作り、それを加工する。支配階級たる世襲武士はその一部を年貢として現物徴収し農民を武力で守る。自給自足の農民と、農民からもらった米を糧に掘っ建て小屋のような自邸で武芸に励む貧乏騎士の世界!
そのような封建制社会の理想は、しかし消費者たる武士階級の欲望、農業技術の向上、手工業製品の複雑、多様化、農産物収穫の変動とそのリスク回避等によって早々に崩壊した。
手の込んだ最新流行の京都製着物や、新鮮な材料を最高の調理人によって料理された美食、中国の高価な輸入材木を用いた美しい邸宅の誘惑に武士は直ちに敗退した。より効率化された農機具や成分改良された高度な肥料、種々の手工業製品は物々交換ではなく便利な金銭で売買された。腐敗、劣化、生産変動する米に代わり貴金属貨幣が流通し、さらに証券化され紙きれで売買、貸し借りされる。
それらを介在し、秩序、信用を与えた者こそ商人階級だった。
幕府は度重なる倹約令を発布し貨幣経済の抑圧を試みたが、恐らく武士自身の物欲の追求のために無駄骨に終わった。
それどころか武士の最大の義務たる社会秩序の維持、被支配層の庇護のために、貨幣経済への適応、介入が必須となった。商人のうち最も重要な流通を握る問屋は幕府領で水運に有利な大阪・船場に集積された。(ex.徳川吉宗による道修町薬問屋株仲間認可)各藩が生産した農産物、手工業製品は大阪・中之島周辺の各藩蔵屋敷へ集積され、船場の問屋によって全国に流通、消費される。問屋業と不可分で、最も有力な富を蓄積したエリート商人が天王寺屋五兵衛、鴻池善右衛門に代表される船場・今橋周辺に集積した本両替商達であった。彼らは幕府大阪町奉行の法的保護下にあって全国諸大名に金を貸し付けた。(彼らの法的立場は領主の時々の都合で抹殺されたヴュルテンベルク公国の宮廷ユダヤ人ジュース・オッペンハイマー、金沢藩御用商人の銭屋五兵衛その他特権商人の運命とは全く異なっている)
のみならず蔵屋敷の蔵元掛屋として各藩の財政を仕切る重責を負った。成功すればさらに資本は膨れ上がるが、もし失敗すれば藩への債権は焦げ付き商家は破産する。
さらに商家間の競争は熾烈であったため能力主義が貫徹され、本両替商クラスの大商家では世襲の当主は象徴と化し、実力で丁稚から大番頭にのし上がった者が実質的な支配人となった。
徳川250年の文化の産物の大半は武士や農民ではなく商人階級に帰せられる。懐徳堂は商人階級の中の金融エリートによって創設・発展した。
<懐徳堂の起源>
懐徳堂の起源は1710年ごろ売薬屋で伊藤仁斎から儒学を学んだ三浦石庵の読書会にさかのぼる。1724年三浦は大火事で自宅を焼け出されたため大阪の鴻池ら主に有力両替商から成る5家が援助して校舎兼住居を建て住まわせたのが懐徳堂の始まりだった。
創成期の懐徳堂について上田秋成は近所の金持ちがドラ息子を放り込んで儒教のお勉強でおとなしくさせるような学校だったと回想している。
風向きが変わるのは当時将軍であった徳川吉宗が江戸・本所で公的な学問所設立があった際、京阪でもそのような動きは無いかと側近に尋ねたのを、懐徳堂の三浦の弟子、中井甃庵が聞きつけたのがきっかけだった。商学兼業の三浦と異なり武家出身の専業学者だった中井は、江戸に下ってロビー活動を行い1726年懐徳堂の官許学問所指定に成功する。
単なる私塾から幕府公式の学問所に昇格したことは、懐徳堂の中身をも変質させていった。江戸、金沢、名古屋その他通常の城下町では人口50%以上を武士が占めたのに対し、人口30万人の90%以上を町人が占めた大阪の「官許」学問所は、異様な発展を始める。
<荻生徂徠への攻撃>
独立的な精神は、既存精神に対する批判によって形成されるのである。
懐徳堂の場合、主に荻生徂徠(1666-1728)の思想に対する批判によって学問所としての独立性を形成した。
荻生は江戸の学者で、極貧から中国の古文書を独学し、以下の結論に達した。
日本人は、古代以来、先進国中国の文書に返り点などを付け、漢文を訓読で無理やり読み下し、古代の漢字の意味を日本語にこじつけて理解しているかの如くふるまってきた。しかし言語、時代精神の異なる中国古文書を現代日本語と同一線上の言語として扱い、解釈を都合よくねじ曲げ、称揚するのは誤っている。荻生は中国古文書を中国語で発声し、それに当時の現代日本語訳を加えた。1000年の歴史の重みに沈滞した漢文訓読に代わる、この斬新な古文辞学は全国中でブームとなった。
さらに古文辞学で用いた伝統破壊的な論考は言語研究から古代史、政治学へと展開する。中国古文書分析の結果、かつて孔子が春秋戦国時代に憧憬した周時代の封建的政治思想こそ至高の先王の道である。後世、諸氏百家と以降の儒学者達が説き解釈した様々な儒学諸派は全て、古代周王朝の偉大な封建的理想に夾雑物を加え、ねじ曲げ堕落した退廃的産物に過ぎない。
例えば南宋時代に生まれ、徳川幕府の精神的支柱となった朱子学は、個々人が徳を積むべき修身主義ゆえに否定される。政治的権力者に生まれつかなかった卑しい者に徳や修身、学問など無意味である。それぞれの生まれついた身分にふさわしい能力を習得し、理想の古代封建体制復興に貢献すべきである。
このような暴力的な思想は主に江戸市中の武士階級に歓迎された。武士階級にとって徂徠の思想によって、あの解決不能な幕藩体制の矛盾を吹き飛ばし、自らが古代の偉大な理想の指導者の一員になれるとみた。江戸の下層民の間では多分徂徠学の中身など大して興味がなかっただろうが、江戸落語の題材にされる人気ぶりである。説教臭い幕府御用の朱子学者と異なり、罪人の息子として生まれ出世した荻生と、夜な夜な集団で吉原遊郭に繰り出し詩文に耽溺する一門に親近感を抱いたのだろう。
徂徠派学者にとって思想は徂徠によって完結されており、その内容の議論は、かつて来た道と同じ理想からの堕落への第一歩でしかなかった。そもそも権力階級ではない者に学問無用とのことで、もはや後継の学者には徂徠崇拝と肉体的、精神的恍惚しか残されていなかった。
徂徠晩年に設立された大阪の懐徳堂の理想は、徂徠学の理想と完全に異なっていた。
懐徳堂の学則では学生、研究者はその身分に関係なく徳を懐き、世襲を否定し、学問を議論し広く啓蒙する理想を表明している。その背景には特に京阪で顕著だった上層商人階級の台頭があった。彼らは生まれながらの身分ではなく、実力でのし上がった階級だった。
商人が多くを占める懐徳堂にとって徂徠の思想はその存在の全否定に等しい。そして存在意義を確立し、誇示する上で徂徠学流行は格好の対象となったのである。
荻生が後代の儒者が周王朝の偉大な古言をねじ曲げたのに代わり、自らが客観的に正しい考証を示したと宣言する「論語徴」に対して、懐徳堂の五井蘭州は「非物篇」において荻生自身も古文を自らの主張する論調に合わせて引用し、勝手な考証をしている例を丹念に挙げて批判した。荻生も同じ穴のムジナというわけである。蘭州はその後の懐徳堂の知的方向性を定めたとされる人物である。
蘭州の弟子で、有能な学主となる中井竹山に至っては荻生が死に際に弟子に「偉人が死ぬ際に紫雲が出るが、紫雲はまだか?」などとわめいていたなどという元弟子の暴露話を披露し、荻生崇拝者から顰蹙を買った。話の落ちは荻生は傲慢不遜な生き方をしたので、あんな醜悪な死に方をしました、との事。
より先鋭的な攻撃は懐徳堂出身の若き学者、道明寺屋富永仲基によってなされた。彼が真に天才的だったのは荻生が編み出した伝統破壊的な言語学的・歴史学的分析手法を攻撃の武器とし、のみならず荻生とも従前の誰とも全然異なる歴史観、世界観を提示したことにある。
<富永仲基-神々の終焉>
富永仲基(1715-1746)は懐徳堂設立パトロン5家の一人、豪商道明寺屋吉左衛門の御曹司で幼少より懐徳堂で学んだ。
若干15-16才で処女作「説蔽」なる本を著し、懐徳堂を破門あるいは自ら出て行った。この「説蔽」は現存しないが、後の著作から推するに儒者を相対的に並べ、儒教の歴史的展開を分析するという代物である。しかし従来日本あるいは東アジアの全ての儒者は、孔子や孟子といった人々の思想の一部あるいは全部を永遠に普遍的な聖なるものと顕彰し論じた。聖人をあたかも化石標本のように並べて歴史学的に分析し、その進化の過程を冷徹に俯瞰するなど前代未聞の冒涜で、懐徳堂から出て行ったのも当然である。
懐徳堂を出た富永は次に「出定後語」なる本を出版した。ここでは大乗仏教に対して同じアプローチを行う。病気による死を予感した富永は自らの思想の要諦、「翁の文」を刊行し、半年後32歳で死んだ。
100年後、ダーウィンは適者生存の法則に従って全ての生物は進化すると提唱したが、富永は中国の儒教なり、インドの仏教なり、日本の神道といった人間の思想・宗教は「加上」の法則によって進化してゆくと考えた。
例えば孔子が春秋戦国当時の覇道に対して周王朝の王道を説き、墨子は孔子の王道に対して周より古い夏王朝の尭舜の道を説いたように。あの荻生の先王思想も伊藤仁斎の説に対する加上の例の末流に位置づけられる。仏教においても現代各宗教義の殆どが釈迦死後の果てしない宗派内外抗争と論争の末、生産、加上され続けた産物であることを経典研究により示した。
加上の無限の繰り返しによって進行してゆく富永の世界観には絶対的に神聖なものは全然存在し得ない。この神なき冷たいイデオロギーの世界で富永が普遍なものと願い信じ説いたのは人間一人ひとりの「誠」や「善」だった。
富永の歴史文書に対する分析の原則、手段もまた科学的で、現代人から見ても完成されている。
・「異部名字難必和会」つまり記録があいまいな伝聞などの場合複数の説が生ずるが、それが本当はどうであったか?ということを断定するのは難しいという原則である。曖昧なものを断ずることで真実から外れるのは忌避されるべきである。
・「三物五類立言之紀」言葉は歴史的に3つの原則がある。
<1>人あるいは集団によって、その意味が異なる。
<2>.時代によって意味が異なる。
<3>かつ5つの類型に分類できる。
5つの類型とは
「張」最初は一つの意味だったものが次第に意味が拡大した言葉
「偏」意味が変化しない言葉
「泛」全般的な意味の言葉
「磯」かつて全般的な意味に用いられていたものが限定的意味に変化した言葉
「反」正反対の意味に変わった言葉(ex.御前:敬称「ごぜん」→蔑称「おまえ」)
こうした特徴を把握せずに歴史的文書を真に理解するのは不可能。明らかに荻生の古文辞学の影響を受け、「加上」し、完成した科学的言語分析である。
さらに中国・儒教、インド・仏教、日本・神道の分析を進める内、拭い難い特徴を抽出する。
中国人は文を好む。文章を積み重ね、文辞を積上げる。
インド人は幻を好む。魔法、空想を重ねる。
日本人は隠すことを好む。隠れたものを尊ぶ。
富永は歴史、思想を分析する上で時代精神、民族精神を把握する必要性をすでに見抜いていた。それらはかつてそうであったように、これからも加上し変化していくことも。
富永は「出定後語」の序文の中で十年前自説を誰も理解しなかったこと、いつの日か自著が中国、インドへ伝わることを望み、死後も自説は朽ちることはないだろうと述べた。
今日中国人やインド人の中に富永の説を知る者がいるかは謎だが、少なくともアメリカの研究者が英文で富永と懐徳堂に関する本を出版している。国内では近世、1745年以降12版にわたって「出定後語」は版を重ね、母校懐徳堂の文庫に収蔵された。富永の思想は近代に入り京都帝国大学の内藤湖南、帝国大学の内藤耻叟らによって賞賛、再評価された。近現代を通じて近世日本思想史上独創的な業績として記憶されている。
<懐徳堂の研究教育と五井蘭州>
富永は懐徳堂出身でパトロン一族だが、独立した学者として業績を残したのである。
彼が懐徳堂の学派に位置づけられるのは、彼の思想の明白な合理的、科学的な研究手法と懐徳堂の学風が一致しているからであって、彼の儒教全般に対する冷たい見解が母校に受容されたことは無かった。幕府官許かつ、諸大名を取引先とする大阪の豪商に支えられた学問所では、正統的儒学の枠から著しく逸脱することはできない。
では懐徳堂内ではどのような教育、研究が行われていたのだろうか。
18世紀末、寄宿学生は約60-90人、通学生はその倍以上いたとされる。近所の子供の読み書きから(彼らを学問嫌いにさせてはならない!)、儒教四書五経の確認的授業、少数の専門的セミナーまで組織的に行われていた。このセミナーでは儒教とそれ以外に日本文学、蘭学(自然科学)、医学などの講義、研究も行われた。荻生の先王思想、迷信じみた仏教や神道、当時庶民の間で流行していた宗教折衷的な石門心学の類は排除された。これらは儒学的観点から見て理屈にあわず合理性に欠けていた。
後世の歴史家は懐徳堂の思想的方向性を決定した人物として五井蘭州(1697-1762)を挙げている。
彼は初代学主三浦石庵の信望厚い弟子で、専業学者として生涯懐徳堂の学術面のリーダーであった。
三宅が折衷的な学風であったのに対し、五井は持続的かつ一貫した思想的体系を創造した。彼は自らの学問的位置を朱子学に置き、天地(自然)に対する格物(観察)による認識を重視する。例えば子供が井戸に落ちかけたら自然に無意識に周囲の大人はそれを助けようとするが、これが荀子の性悪説に対する明白な反証である。偉大な過去の儒学の聖人達は天地自然から人間の道徳を発見し抽出し、説いた。五井は富永仲基と異なりそれを尊び論ずるが、盲目的に神聖化、崇拝しない。というのは彼ら聖人と道徳は全ての人間同様自然の産物であって、人間一人ひとりが観察し、理解し、判断し、行動することが可能であるからである。
五井もまた過去の儒学者同様、人間が存在する天地への探求を進める。彼は朱子学の中の古めかしい宇宙論を退け、長崎経由で入ってきた蘭学に注目する。ヨーロッパ人のいうエネルギーの究極的な基が太陽に起源することは正しく、彼らが自然観察し発見した物理学的法則は旧来の極東アジアの学者の説よりも卓越していることを認識した。懐徳堂へ麻田剛立ら蘭学者を懐徳堂へ招聘した。五井にとって蘭学(自然科学)も、儒学と同様天地自然に対する格物(観察)の産物であった。
五井の思想の影響は中井竹山や山片蟠桃ら以降の懐徳堂の学者に濃厚にみることができる。
<中井竹山-パワーエリート>
18世紀後半、懐徳堂が「昌平坂学問所を凌ぐ」とまで形容され、組織としての絶頂を迎えるのは主に学主、中井竹山(1730-1804)の手腕による。彼は五井蘭州に鍛えられた知的能力と世界観に加え、行政官僚的な残酷なまでの実行力、政治的センスを併せ持っていた。
中井竹山は懐徳堂官許のロビー活動を行った甃庵の息子だった。甃庵は竹山に懐徳堂の実質的な運営を託した。当時、懐徳堂運営には地元の町年寄が介入していたのだが、中井は大阪町奉行所を巻き込み町年寄の影響力を排除した。彼の目標は地域的な郷校以上のもの、構成員の大部分を非支配階級の町人が占めながら、幕府の政策にも影響力を行使しうる類の自治的な官立儒学学問所であった。懐徳堂の権威の源泉は大阪領主徳川将軍家であると見た中井は歴史書「逸史」を発表した。これは戦国の暴力的混乱から天下を統一し、太平の世をもたらした徳川幕府の歴史的正統性を賛美する代物だった。これは主に昌平坂学問所の朱子学者達に絶賛された。一方最も憎んでいたものは荻生徂徠の愚民的な先王思想で前述のように「非徴」において徹底的に罵倒した。
すでに学問的名声と幕府とのコネを確立していた竹山は1788年上阪した事実上の幕府最高権力者、老中松平定信に4時間に渡って教育、政治、経済に関して意見を述べた。その要諦は「草芧危言」に記述、出版された。内容は教育分野では江戸の昌平坂学問所、大阪の懐徳堂に加え、京都に官立大学を設置し、3校の支配のもと仏教寺院の寺子屋に代わる脱宗教的な公的初等学校を全国に設置する。政経分野では天皇制の脱宗教、脱神格化、幕府の中央集権強化、参勤交代の簡略化、財政合理化、それに武士世襲特権の廃止(!)と余剰武士の解雇(!!)、能力主義の貫徹、社会福祉整備などであった。
こうした中井の提言は師五井蘭州の天地の格物への愛を基本としていた。加えて門弟の大阪上層商人の幕府に対する忠誠と危機感、そして秘かな権力への意志と理想が集約されていたのだろう。今日ではほとんど忘却されたこの中井の「草芧危言」は、彼が憎み嘲笑した荻生徂徠の「政談」、太宰春台の「経済録」と共に幕末志士の間で最も参照された三大経世論書となった。中井が忠誠を誓った幕府の終末は確実に迫っていた。
中井らの尽力よって懐徳堂は単なる地域の郷校から全国的に知名な有力学問所にのし上がった。中井自身彼の友人の学者達の推薦によって幕府から昌平坂学問所史館総裁を要請されたが健康上の理由を口実に辞退している。彼が追及したのは個人的名誉ではなく、自らが代表する懐徳堂の発展にあった。
発展には限界があった。1793年懐徳堂は火災に逢ったが、幕府が計上した再建費は要求額の約1/5に過ぎず、中井は残金を近所の豪商から寄付金をかき集め再建した。結果的に大阪の冨と懐徳堂の内容にふさわしい壮麗な校舎となったが、再建経緯は幕府官学の理想とは全くかけ離れていた。
中井の理想はその死にあたって再び挫折した。優秀な学者に懐徳堂の後継学主を引き受ける者はなかった。中井自身後継者は世襲否定を明文化していたにもかかわらず、結局、息子や弟履軒に学主就任を懇願する羽目になった。商人の門弟達には家業があり、外部の専業学者にとっては安逸した藩校の宮仕えとは全然異なる不安定な半官半民の学問所経営は魅力が無かったのだろう。
中井が提示した世界、理想は彼が信じた幕藩体制下ではほぼ実現しなかった。そして懐徳堂はこの自己改革能力の低い幕藩体制と運命を共にする。そこに中井と官許学問所懐徳堂の歴史的限界があった。しかし彼が指導した門弟には傑出した学者が見られる。その内の2人を紹介して終わりたいと思うが、彼らの偉大な業績をみれば、それだけでも中井は哲学者として歴史の中で正当化されるだろう。
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懐徳堂旧阯碑+愛日小学校-その2に続く>