カテゴリ:上町(大阪城界隈) |
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2011年 08月 16日
![]() 制作年代:明時代(1368- 1644) 設置年:昭和15年(1940) 66回目の敗戦記念日を迎えた。しかし本物の戦争を経験した人が高齢でどんどん死んでいっているせいか衣装、俳優、脚本、どれをとってもインチキ臭い屑映画の予告編CMがやっていて吐き気を催す訳だ。玉砕だの空襲だの特攻だの悲劇の話が政治思想を問わず日本人全般に受けるようだが、それは敗戦間際のエピローグに過ぎない。 ABCD包囲網などという神話(1941年時点でBイギリスはナチス・ドイツと交戦中・C中国は内戦後日本と交戦中・Dオランダはナチス・ドイツに軍事占領、全然包囲網を成していない)を未だに信じたがっている奇特な方々も多いが、第二次世界大戦の枢軸側の真の目的とはナチス・ドイツと大日本帝国による世界征服である。 大阪城内の狛犬は大東亜戦争の前哨戦である日中戦争の実態を示す貴重な戦跡。この狛犬は1940年中国から運ばれた戦利品である。中国への返還運動があったが、1984年中華人民共和国政府から再度寄贈された。 ![]()
2008年 04月 19日
![]() 竣工年:明治20年(1887) 設計:不詳 近代に入ってから帝国陸軍が建造した本丸への正面門。 桜門は豊臣時代に本丸正面門前に桜並木があったことから命名され、徳川将軍家が城を再建した際もそれが継承されたことに由来する。戊辰戦争の際、薩長に大阪城を無血開城することを嫌った幕臣が本丸御殿に火を放ち自害したが、その際桜門も焼失した。近代になって大阪城は陸軍の所有下に入り城内及びその周辺地域全体が軍事基地として再整備された際再建されたのが今日の姿である。 近代的な煉瓦門ではなく高麗門で銃眼のある近世の様式に復元されているのが興味深い。その他旧幕臣が焼いた本丸御殿にかわって、明治18年(1885)紀州徳川家の和歌山城二の丸御殿(1947年焼失)を大阪城本丸へ移築し軍司令部本部として利用するなど帝国陸軍は近世風の大阪城に対して格別の思い入れがあったらしい。 重層的な歴史的経緯が評価されたのか、桜門は近代復元城郭建築としては異例の国の重要文化財に指定されている。 ![]() ![]()
2008年 04月 12日
![]() 竣工年:大正13年(1924) 設計:大阪府営繕課 2008年4月6日に新知事がたこやきパーティーを開催するに伴って内部公開された知事公館。貴重な大正期RC造大規模邸宅建築を拝めると期待したのだが、外観、内装とももう何様式で建てられたのかすら判別不能なまでに改造されている。特に公開された1F内装は竣工当時のものと思わしき部分はほとんど何も残されていないようだ。 また一見白い平板なファサードはモダニズム建築にみえるが、窓の造作など著しく不自然である。かつては縦長の連窓であった。寄棟屋根にあった味わい深いドイツ風の屋根裏窓も潰されている。正門左側の小屋の意匠が竣工当時の公館のファサードに近いのかもしれない。 竣工当時の外観写真は近代大阪の建築(1984 大阪府建築士会)pp.259を参照されたい。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 花見客目当ての香具師の商売を妨害するようなイベント以外に、彼にはもっと他にやるべきことがあるだろう。無理無駄無意味な休日出勤を強いられた府の職員もいい迷惑である。
2008年 04月 08日
![]() 大手前配水池 竣工年:明治28年(1895) 設計:Henry Spencer Palmer 配水管 竣工年:不詳 製造:陸軍大阪砲兵工廠 大手前高地区配水喞筒場 竣工年:昭和6年(1931)設計:宗建築事務所 コレラ流行阻止のために大阪市が年間予算の約三倍の費用を投じて大阪城内に建造した近代上水道施設。計画を指揮したのは日本最初の近代上水道を横浜で完成させた英国陸軍工兵少佐、H. S. パーマーである。その構想とは桜ノ宮水源地で取水された清潔な水を大阪市内で最も標高の高い大阪城本丸の大手前配水池までポンプで汲み上げ、自然流下で市域へと給水するというものであった。 主要な取水場は大正3年(1914)、桜ノ宮から柴島(くにじま)へ移ったが、パーマー少佐が設計した大手前配水池は今でも現役で使われている。 大手前配水池の水を市域へ給水する配水管は陸軍大阪砲兵工廠製である。火砲の製造を得意とするこの極東アジア最大の兵器工場は兵器の他、有閑期には大砲製造技術を生かして水道管や花火などの民生品も製造していた。当時設置された西日本主要都市の水道管の多くは大阪砲兵工廠製だったという。 大手前配水場高地区喞筒(ポンプ)場は時代が下り、昭和6年(1931)竣工の美しいゴシック様式建築。設計は宗建築事務所。 <コレラと大阪> 近代まで人口の密集する都市の歴史は伝染病との闘いの歴史でもあった。田舎の祭りが収穫を祝う秋に行われるのに対し、天神祭(大阪)や祇園祭(京都)に代表される伝統的な大都市の祭りは初夏に行われれる。これは蒸し暑くなる夏へ向けての伝染病封じの神事の色彩が強い。また大阪市中では近世日本としては先進的な太閤下水(背割り下水)が敷かれている。しかし細菌やウイルスの存在が知られていなかったため、便所の横に井戸を掘るような不潔行為が当たり前のように行われていた。 こうした貧弱な衛生インフラに突然襲い掛かった並外れて高い致死率を持つ伝染病が、第3次マラータ戦争(1817-1819)により大英帝国が世界中に撒き散らしたインド・ベンガル地方の風土病、アジア型コレラである。 アジア型コレラは感染者の糞便、嘔吐物で汚染された水を飲み、感染すると5日以内に発症、極度の下痢と嘔吐で体内の水分を失い死に至る。適切な治療の無い場合、致死率は80%(!)である。 無論、「適切な治療」など19世紀医学では全く不可能なのでヨーロッパの諸都市を中世ペスト以来の恐怖に叩き込んだ。あの有名なパリの地下水道の整備はコレラ流行による。 日本には早くも文政5年(1822)長崎・出島に初上陸し、大阪を含む西日本一帯に猛威を振るった。 大阪では1822年以降、1858年、1879年、1890年に大流行し、いずれも多数の死者を出した。特に文政5年(1822)、安政5年(1858)の流行が道修町の神農祭を生んだことはよく知られている。 そして明治23年(1890)の大流行をきっかけに大阪の近代上水道は整備されたのである。別にうまい水が飲みたかったからではない。 ![]() ![]() ![]() しかし現在では大阪城は国の史跡に指定されているのでこの様な無茶な工事は出来ないだろう。 ![]() ![]() ![]() 喞筒(ポンプ)の当て字が良い。
2007年 12月 09日
![]() 設立年:明治4年(1871) 帝国陸軍が設立した日本最大最古の陸軍軍人墓地。陸軍創始者大村益次郎は世襲制武士軍団ではない近代陸軍の創設を大阪から着手すべく、大阪城周辺に兵学寮、兵隊屯所、造兵寮、衞戍病院などを設立、明治4年(1871)日本最初の徴兵制が実施された。これに併せて同年設立されたのが真田山陸軍墓地である。 墓石の大きさ、素材、敷地の広さは階級ごとに異なる。将校の墓は遺族が建立した上質な花崗岩製で、墓というよりは巨大な記念碑のようだ。風化の兆候はほとんど無い。一方圧倒的多数を占める捕虜、軍役夫、兵卒、下士官の墓石は陸軍が建立した安物の和泉砂岩製で風化が激しく崩壊したものもある。 15077㎡に及ぶ広大な敷地に5300基余りの墓石が整然と並ぶ光景は壮烈だ。しかしこれらのほとんどは日露戦争以前のものである。以降、日中戦争、太平洋戦争と時代を下るに従って戦死者数は増加の一途をたどり、もはや個別の墓では対応できなくなっていた。第二次世界大戦末期の昭和18年(1943)に建設された仮忠霊堂には4万3千柱もの遺骨が納骨されている。 現在、仮忠霊堂は老朽化が著しく危険な状態という。「老朽化」という言葉はあたかも自然現象であるかのごとき印象を与えるが、単に適切な維持管理を怠った結果に過ぎない。 こんないいかげんな管理をやっているのは例によって大阪市である。しかし勝とうが負けようが全ての近代戦争の結果と責任は各々の国家が負う。近代軍制と戦争が生み出した恐るべき負の遺産である真田山陸軍墓地の現状は国家の責任で是正されなくてはならない。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 彼は明治期に軍隊で蔓延していた脚気の原因が栄養の偏りである事を見抜き、大阪鎮台で麦食を奨励して脚気を一掃した。当時の陸軍では脚気は細菌感染症とする意見が支配的であった。 ![]() ![]()
2007年 09月 28日
![]() 竣工年:不詳 設計施工:不詳 所在地:大阪市中央区安堂寺町1‐4‐15 細い植え込みの参道が都会的なお寺。空襲から焼け残った町家が残る、上町の旧市街にある。 <物凄い歴史> 推古天皇8年 (600年)、聖徳太子の創建。蘇我稲目、小野妹子、大伴金村の娘が尼僧として寺に入った。四天王寺西門内にあったが、戦乱により焼失後、寛文8年(1668年)現在地に移転。現在は四天王寺を総本山とする和宗に属する尼寺とのこと。 ![]() ![]() ![]()
2007年 07月 05日
![]() 竣工年: 昭和初期? 設計施工: 不詳 伝統的な瓦葺の表長屋に洋風のファサードを設置した、いわゆる看板建築。 関東地方でよく見られるキッチュな装飾はなく、一見オフィスビルのようにみえる。
2007年 07月 05日
2007年 07月 05日
2007年 06月 30日
![]() 竣工年:昭和11年(1936) 設計:大阪市営繕課 室戸台風で亡くなった教員や生徒を追悼するために建設された慰霊碑なのだという。しかしその異常な巨大さ(高さ30m)や、災害とは全く無関係な右側レリーフがこの記念碑の真の建設目的をあからさまに表明している。 レリーフの直立不動で無表情な子供の隊列を前にモーニングコートを着た男が読み上げているのは、教育勅語である。教育勅語は明治23年(1890)10月30日、山縣有朋内閣が国家教育の基本方針を起草し、明治天皇の名義で発布された。昭和に入り、その民族主義的、国家主義的内容から、革新派官僚や軍部が国民の強制的同質化を進めるために神聖化された。当時天皇の写真と教育勅語のコピーを火事から救うために、燃える校舎へ飛び込んで死んだ馬鹿な教師が国民的英雄に祭り上げられたのだという。今日の北朝鮮を髣髴とさせる全体主義的政治体制下では、国民の自由な精神を圧殺するために、この様な巨大なモニュメントが必要だったのであろう。 戦後、日本教職員組合が帝国教育会から教育塔を受け継ぎ、この上なく美しく管理されている。そして教育勅語が発布された記念すべき毎年10月30日には政府賓客を招いて式典が催されるということだ。 ![]() < 前のページ次のページ >
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