三越大阪店新館(取壊し)
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竣工年:昭和8年(1933)
設計:横河民輔
<315年の長大な歴史-近世>
1690年、京都の呉服商、両替商の越後屋(三井)八郎右衛門は幕府大阪御金蔵銀御為替御用商人として大坂両替店を構えると同時に、呉服店を大阪・高麗橋に出店した。高麗橋には三井越後屋よりも巨大な江戸店を持つ老舗呉服商、岩城升屋本店があり、三井越後屋はわざわざその隣に店を構えた。要するに先発ライバル店の本拠地に殴り込みをかけたのである。
三井越後屋はお家芸である「現銀掛け値なし」を売り文句に(他店もすぐに真似たのだが)、大阪においても岩城升屋と並ぶ呉服商としての地位を固めた。
岩城升屋は明治初期に廃業したが、逆に三井は近代日本最大の財閥に膨張していくことになる。
<315年の長大な歴史-百貨店化>
そして三井財閥の母体、三越の大阪店も東京・日本橋本店に遅れること3年、大正6年(1917)、木造町家店舗から西洋様式近代建築へと建て替えた。従来の呉服専門店ではない全ての物がそろう品揃え、西洋風建築の新しい百貨店、デパートメントストアは大阪庶民の脚光を集めた。
また三越は市電が走り、大正期までの大阪のメインストリートであった堺筋に面しており、追って大阪進出をした、高島屋と松坂屋はいずれも堺筋に店を構えた。
<315年の長大な歴史-永い苦節の始まり>
近畿圏最初の百貨店となった三越大阪店は、大阪を代表する百貨店の地位を確固たるものにするかに見えた。しかしそうはならなかった。立地条件が繁華さの要求される百貨店に適していなかったのである。
三越大阪店のある、北船場地区には大阪・日本を代表する豪商が集積していた。しかし御霊神社門前町であり小規模小売業者が集まった平野町通りを除くと、商家のほとんどが金融、流通を掌る両替商か問屋、あるは商売を止めた資産家、仕舞屋だった。素人相手の小売業者がほとんどいない、今日のビジネス街の先駆のようなこの特異的な商家街で、三越大阪店は周辺環境から孤立した存在であった。
近世以来大阪における繁華な小売業の中心は三越大阪店のある北船場ではなく、大丸やそごうのある島之内・南船場の心斎橋筋界隈だった。心斎橋筋、三越のある堺筋から離れたこの通りは、幸運にも昭和の初めに開通し今日まで大阪のメインストリートとなっている御堂筋(旧淀屋橋筋)と隣接していたのである。結局、昭和初期の百貨店を核とする新しい近代大衆消費文化は心斎橋において花開いたのだった。
さらに三越大阪店の客層は大阪の百貨店中で最も裕福で最も保守的であった。近世以来 三越は周辺の船場商家に呉服を売りさばいてきた。彼らの多くは新しい百貨店を見物しこそすれ、買い物を楽しむために百貨店に出向く事は慎重であった。呉服だろうと食品だろうと、全て代々出入りの商人を自邸に呼びつけ、消費する近世の慣習を捨てることはなかった。三越大阪店は結局、近代的な新商法を展開しつつも、番頭はんと丁稚どんがお得意様に必要分の呉服注文聞きにうかがう近世以来の外商営業に注力した。
<315年の長大な歴史-穏やかな終焉>
しかしこの昔ながらの顧客、船場の豪商達の未来はあまり長くなかった。
その意味で三越大阪店に致命症を与えたのは、皮肉にも三井財閥出身の鉄道王、阪急電鉄総帥、小林一三である。三越の顧客であった都心の資産家は次第に郊外、つまり阪急沿線に建設した郊外の別荘へと移住し、さらにその終着駅、梅田に世界初のターミナルデパート、阪急百貨店を設置したのである。
近世以来の顧客が郊外流出していく中、三越は昭和初期、平成初期の二回、難波、梅田両駅でターミナルデパート化を果たすチャンスがあった。しかし高島屋、ヨドバシカメラとの競争に破れ、失敗した。
そごう破綻の際、心斎橋のそごう跡地へ進出する案も結局立ち消えとなった。
そして三越大阪店は法人向け外商部門が肥大した都心の小規模店舗として、創業以来の地、ほとんどの住民の消えた街、船場・高麗橋に存続した。しかし1996年阪神大震災に被災しその小さな店舗はさらに縮小、2005年店舗リストラの対象となり三越大阪店は315年の栄光と挫折の歴史に幕を下ろした。
大阪店閉店から3年後の2008年、旧三井財閥の起源にして、日本における近代大衆消費文化と百貨店業の創始者であった三越百貨店本体もまた、業績悪化により関東の新興百貨店、伊勢丹に事実上救済合併されたのである。
伝統ある暖簾だけが現在も残る。
様式装飾もほとんど見られず、モダニズム風。
大正期築の旧館は阪神大震災により破損し取り壊され既に無い。
近世、三井越後屋は京都に本家・大元方(経営統括本部)を置き、京都、大阪、江戸に本店、全国に支店網を広げた典型的な他国店持・京商人(たこくだなもち・きょうあきんど)であった。
三井越後屋大阪本店の建築も京都本店同様、典型的な京阪豪商町家建築の様式、表屋造りである。
京畳で敷き詰められた空間が店奥まで延々と続いている。
間口の大きさは全然異なるが近世の三井越後屋大阪本店の店先も恐らくこんな感じだったのだろう。