大阪城大手口多聞櫓・千貫櫓・焔硝蔵
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竣工年:大手口多聞櫓/嘉永元年(1848) 千貫櫓/元和6年(1620) 焔硝蔵/貞享2年(1685)
設計施工:千貫櫓 /小堀遠州
今日残る大阪城は豊臣秀吉ではなく徳川幕府2代将軍徳川秀忠によって建造されたのである。徳川家はメンツ上、かつての天下人秀吉の大阪城跡に、秀吉の大阪城を凌駕する規模と壮麗な城を建造する必要があった。元和6年(1620)から9年3期に渡る天下普請によって完成したこの徳川大阪城は、石垣の高さ、二重に廻らせた堀割の長さで日本最大、近世日本城郭建築の集大成として新築された。以降東の江戸城と並び、250年間徳川幕府西国支配の象徴として君臨する。
しかしこの近世日本を代表する記念碑的建造物の真の施主、徳川将軍家は次第に忘れ去られ、太閤秀吉が建造した城として諸大名家の記録に残された。やはり大阪と言えば豊臣秀吉なのだろう。
近代に入り、陸軍省と陸軍第四師団の管轄に入り、軍用地となった。登記上大阪城の所有者は陸軍省のまま現在に至るという。
昭和34年(1959)、ようやく近代的な考古学調査によりこの城が徳川家によって秀吉の城の上に新築された物であることが明らかになる。
歴代城主は徳川将軍家。
しかし江戸城住の将軍家に代わり大阪城代が常駐し大阪及び畿内の支配、西国大名の監視等にあたった。大阪城代は徳川幕府の権力構造の中では将軍、老中、京都所司代に次ぐNo.4の序列ポジションである。
主要建造物の内、天守閣は建築後寛文5年(1665)たった39年で焼失後江戸城同様再建されず、巨大な将軍家本丸御殿、大坂城代屋敷も幕末の動乱で焼失した。
石垣と櫓、門、金蔵などが残り現在に至る。
大手口多聞櫓 続櫓城内側ファサード
1628年に築後、1783年落雷により焼失し、幕末の混乱期、嘉永元年(1848)再建された大手口多聞櫓全景。現存する多聞櫓としては日本最大。
左が大手門大門を有する渡櫓、右が続櫓である。
国指定重要文化財。
すでに財政が破綻していた幕末の徳川幕府には巨大な大阪城を修復する経済力は無かった。
従ってこの大手口多聞櫓もまた、第九代鴻池善右衛門以下、大阪・堺・兵庫・西宮の豪商から御用金によって建造された。
この様な近世-近代の大阪を代表する記念碑的建造物の大部分は幕府や政府ではなく鴻池や加島屋、三井、住友の様な大阪とその周辺の近世豪商の資本によって建てられた。
やはり大阪は商人の街である。
続櫓入口。
レンガの塀は旧帝国陸軍大阪衛戍刑務所塀。
入口
続櫓武者走り(廊下)
実際幕末には14代将軍徳川家茂が大阪城を拠点としここを通って本丸へ向かったという。
同上
窓を望む
大手門護衛の為の兵士が詰めた部屋
類似の姫路城の長局と比較すると軍事的色彩が強いという。
続櫓、城内に侵入した敵を射殺するための銃眼。
渡櫓 虫籠窓。
同上
渡櫓門(大手口大門)二階に相当する内部構造。
機能一点張りの松の梁組が見事である。
ここまで巨大な近世軍事施設の空間は有るようでない。
同上
同上
同上
余りにも巨大な空間の為松の梁は複数の部材を木組みで組み合わせて成立している。
かつての部材
槍落としと銅板で被覆された虫籠窓
素晴らしい空間。
大手口多聞櫓より千貫櫓を望む
美しい塀
左の櫓が大手口多聞櫓に続く千貫櫓
元和6年(1620)建造、大阪城内最古の建造物である。
二階唐破風が格式の高さを示している。
千貫櫓入口
千貫櫓内部
千貫櫓階段
重厚な木の質感が素晴らしい
千貫櫓内部
千貫櫓天井
古材がブスブス刺さっている。
壁にも古材が懸けられている
千貫櫓横より城下を望む
大手口多聞櫓・千貫櫓から大阪城代屋敷跡を通って離れた場所にある焔硝蔵。
火薬庫である。貞享2年(1685)建造。
近世の焔硝蔵としては日本唯一の現存例で国指定重要文化財。
焔硝蔵入口
約2.4mの壁厚に対して内部空間の幅も同じ約2.7m
落雷による大爆発後の再建であり、如何に防災に神経質であったかが判るだろう。
花崗岩(御影石)によってのみ構築された見事な内部空間
このような近世石造建築は日本では希な例である。
同上
木造建築をそのまま御影石へ転化した意匠の石造梁
類似の建造物は現存せず、唯一の文化遺産である。
風雨による劣化・風化はほぼ皆無である。竣工時の設計施工が適切であったことが330年を経た今日に於いて証明されたこと、これは稀に見る光景ではないだろうか?
ブロンズ製の扉
近世的意匠が素晴らしいの一言。