懐徳堂旧阯碑+愛日小学校-その2
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<鴻池伊助(草間直方)-近代的経済学>
鴻池伊助(草間直方)(1753-1831)は京都綾小路烏丸通の小商人桝屋唯右衛門の子として生まれ、日本最大の本両替商鴻池の京都店へ丁稚に出されて頭角を現し、今橋本家支配人を経て、別家独立し熊本藩・平戸藩・南部潘の大名貸、財政指導を行った叩き上げのトップバンカーだった。顧客の大名の評判は彼の成上がり人生に相応しく「互いに平等であるかのように思うことをはっきりと言う、恐れを知らぬ男」というものだった。
草間は金融の仕事の傍ら、懐徳堂で中井竹山と竹山の弟でやはり傑出した学者履軒に学んだ。やがて彼は自らの商品である貨幣の研究に没頭し、発表したのが日本最初の貨幣史「三貨図彙」である。この本では懐徳堂学主、中井竹山自らが序文を書き中井は「吾(わが)党の草間」と記したように懐徳堂門弟の作品であることをはっきり示している。それは貨幣の歴史から近世経済の歴史と考察、問題点、解決策、包括的理解を提示した遠大な経済学の著作だった。竹山の前述著作「草芧危言」の主要な要素の一つは経済学である。そして思考における恣意性や神秘化を否定してきた懐徳堂の冷徹な知的伝統に基づく経済研究となった。
草間は不易で循環的な古代以来の貨幣史をだらだら書き連ねるのを止めた。僅少な中国からの輸入銭に代わり、日本において大規模に貨幣鋳造が始まった(需要が増大した)のは慶長年間(1596-1615)以前ではなかった。従って当時の多くの学者が古代には貨幣が豊富にあったと信じ、古代の教訓を有益とするのは誤りである。少なくとも日本における真の貨幣経済はごく最近に始まったのであり、目下の経済問題を解決するにあたって遠い過去から学び得るものなど恐らく何も存在しない。
そもそも貨幣とは一体なんだろうか?草間の結論は信頼であった。新井白石や荻生徂徠のような従来の学者は貨幣の貴金属としての価値に注目し経済を説いたが、見当違いなので倒錯的な結論に終わるだろう。貨幣の本質は商品交換能力の信頼であって、素材が金だろうが銀だろうが銅だろうが素材そのものには大した意味を持たない。1705年頃幕府が従来の純度の高い金銀貨に代わる低純度の金銀貨を乱鋳した結果、金銀貨に対して銅銭の価値が相対的に上昇し、貨幣の流動性は次第に失われ、耐久財へ代えられ、円滑な経済活動は阻害された。この場合問題は金銀貨の純度自体ではなく、見境の無い乱鋳と純度低下による金銀貨(とその発行者たる幕府)の信頼の失墜こそが経済に影響を与えたのである。使用者が信頼できない貨幣を見捨てた結果の悲劇だった。
しかし貨幣のみが経済変動に影響するのではない。続く1730年代の物価の急変は悪貨ではなく農産物生産量の天候による激変によってもたらされた。幕府によって人為的に決定される貨幣供給と自然条件に依存する農産物供給によって市場において物価は決定される。農産物供給量変動による物価の高低によって引き起こされる経済的悲惨を、米商人とか市場なりに責任転嫁するのは誤りであるだけでなく真の問題解決にとって有害である。天候が制御不能な以上、幕府は市場価格の適切な規制、備蓄米の蓄積と放出によって価格の破局とそれに続く恐るべき事態を防止しなくてはならない。しかし草間は幕府の経済運営能力に懐疑的だった。
草間が明らかにした幕府と大名の経済政策は無能とごまかしのおぞましい連鎖である。歳入不足と領民の貧困に苦しむ各藩は土地開発と農業技術革新により農産物生産を増加させた。過剰な生産増加は農産物価格を下落させ、大名や幕府の現銀収入を減少させていった。大名は現銀確保のためますます大量の米を領内で収奪、大阪市場で換銀し、それが領民の飢餓をもたらしていたのである。草間は1715年-1814年の100年間の米の価格変動データを収集し、価格が短期的に急激に変動しながら長期的平均価格は恒常的に下落していることを示した。この錯誤から明らかなのは問題は不十分な生産ではなく、生産された商品の適切な流通と分配である。貨幣の大量供給によってこの構造的危機は緩和されるはずだった。
そして膨れ上がった負債を大名は平然と踏み倒した。(大名貸は踏み倒すリスクを勘案して高率の利子を設定していたが)幕府は大阪の豪商に巨額の御用金を課した。この二つのでたらめな解決策は大量の資本を健全な取引、流通から奪い去り、経済に破滅的影響を与えた。大名への緊急融資は停止し、注文商品は解約され、大阪諸問屋にすでに送られていた商品は輸送費欠如のため国許へ返送された。流通が正常に機能しない社会で苦しむのは、庶民である。庶民は悪政を見逃しはしない。国家は支配層の経済失策によって衰退し被支配層からは反逆の意が生ずるだろう。
草間は師の中井程は未来を信じていなかったが、幕藩体制の経済的破滅を回避する方策として、全ての藩は負債の正確な数値を公開すること、大名は金融資本の信頼を得るため契約を誠実に履行すること、そして武士階級は特に米価政策について経済の専門家たる商人に意見を乞い、それを実行することを挙げた。
しかし取り返しがつかない程退廃していた幕藩体制は草間の死後、彼の予想に従って崩壊していった。誤った経済政策によってますます貧困化していった大阪の庶民は幕府と鴻池ら船場の豪商と米市場を憎み、幕府元役人大塩平八郎に煽動され暴徒化し焼打ちにした。暴動は全国で頻発した。幕府は改革と称して無意味な農業増産命令と倹約令と御用金課金と負債減免令を乱発し、果ては強力な流通システムだった株仲間を潰し、結局自らを枯渇させ民心は離反し、経済再建に成功した西国大名達によって滅ぼされた。
新たに成立した明治政府の大蔵省は経済体制再構築にあたって草間の「三貨図彙」を基本的な文献として参照した。「三貨図彙」は出版から200年を経た今日に至るまで経済史の学術論文で参考文献として引用され続けている。
草間は中井の経済への研究を歴史的な視野で深化した。彼の眼には歴史はもはや過去と同じ繰り返しを止めた。貨幣経済という巨大な流れは自らの属する商人のみならず、武士、農民その他全ての人々を巻き込みますます加速し、障壁を破壊してゆく。その流れはやがて草間の生きた体制や彼が属した階級をも清算していった。流通や情報が国境を越え資本の見えざる手によって適切に配置される今日からみて、懐徳堂的な理性や世界観が京都の僧侶や江戸の武士、あるいは北京の旗人や漢城の両班でもなく、草間のような大阪の金融家から発信されたのは歴史の必然だったように見える。
<升屋小右衛門(山片蟠桃)-夢の代>
升屋小右衛門(山片蟠桃)(1748-1821)は草間直方と同年代で経歴も驚くほど似ている。播州の半農半商の家から上阪し、余り業績の振るわない親族の本両替商、升屋へ丁稚に入る。番頭として破綻寸前の仙台藩財政を巧みな運営と投機、藩札発行で復活させ升屋をトップクラスの両替商に育て上げた。伝記によれば仙台藩主は升屋の蟠桃以外の者は相手にしないというのが公然と流布された秘密だったという。
山片は本業の金融活動の他に塾生だった丁稚先の主家の影響を恐らく受けて、近所の懐徳堂で学んだ。そして引退後完成したのが大著「夢の代」である。構成は天文・地理・神代・歴代・制度・経済・経論・雑書・異端・無鬼上下・雑論の十二編から成る。これは明らかに古代中国、諸子の著作体裁に従っている。一方その内容は彼自身「新説発明」のことのみを述べると記したように伝統的儒学の確認とは異質の代物であった。そしてその全ては懐徳堂の学主中井竹山と弟履軒から教わったことだが、太陽明界の説(地動説)、無鬼(無神論)の説は自分の発明が含まれると称している。つまり「夢の代」は懐徳堂の思想の集大成であるとともに山片によってその思想を更に極めた著作である。
山片のいう太陽明界の説とはいかに宇宙はあるのかという問いの答えである。地動説を長崎通詞が翻訳した幕府向け秘密文書を読んで理解した彼は、本来懐徳堂の宗旨であった朱子学の宇宙論を巧妙に換骨奪胎してしまった。朱子学では宇宙は天と理から成りそれら総てを内包する絶対的存在である。理は人間を含む宇宙の至高の法則にして設計図であって、その理とは何かを探求するのが朱子学の主要なテーマの一つだった。対して山片にとって地球とそこの生命は太陽の周りでくるくる回り、太陽光で水分が蒸せられてできた小さな物体である。したがって太陽は偉大で、人間の道徳の心は皆太陽おかげなのである。(これは多分彼なりの朱子学的宇宙論との妥協なのだろう)しかしその太陽もまた絶対的存在とは程遠い。彼が描いた宇宙図には太陽系と同じような星々が広大な宇宙空間に沢山存在し、それらが個々に個別の天地を形成してしまっている。こんな山片の世界観では絶対的な理は人間の住む太陽系に限定され、無限の宇宙の中で雲散霧消するのだった。
さらに山片はコペルニクス、ケプラー、ニュートンに言及し自らが信ずる地動説に代表されるヨーロッパ科学の精華は新たな発見を実験、検証確認し、過去の誤った説を破棄することによって成立したと主張した。古代の誤った知識は後生崇められるのではなく、新しい世代の科学的知見によって塗り替えられるのである。ここに山片の経済学における草間の態度と完全な符合を見ることができる。
ちなみに何事にも懐疑的な山片は、ヨーロッパ人達の科学を称賛はしたが、同時に野蛮な侵略を行っていると指摘した。そして彼らのやくざ的性向は、経済的な自給力の無さと富の不足に由来すると見た。実際には地球の裏側の山片の同僚たちが膨れ上がる富の投資先を欲して政府を動かし世界侵略へと焚き付けていたのだが。この錯誤の背景にはイギリスの対中国貿易は山片が生きた19世紀初頭まで一方的な赤字だったことを付言する必要がある。日本とは通商関係すら無かった。
本質的に封建制の産物と思われる絶対性と神秘性への軽蔑と憎しみは町人学問所、懐徳堂の知的伝統を通じて脈々と継承されてきた。山片の長大な「夢の代」は地動説で始まり歴史、経済政治に演繹され、やはり偶像破壊的な無鬼の説をもって終わる。
近世後期、民族主義的背景から国学が台頭していた。本居宣長は古事記を解読し天皇による国家創造の神話と永遠の皇統の神性を主張していた。山片はこうした神話の内容は信頼すべき歴史文書が存在しないとして「すべて偽造-ミナウソ」と切り捨てた。そもそも国学者が神代などと称する2000年以上前に日本には記録媒体たる文字が存在しない。古事記に代表される建国神話は土着宗教の神道が、先進国からの輸入宗教仏教などとの同等性を主張するために後世捏造されたデッチ上げである。
-山片の見解に対して死後数十年後に成立した「近代国家」日本の歴史観ははるかに劣等化していた。懐徳堂式の厳格な理性ではなく、愚民的でロマン主義的な国学と神道がこの国の精神世界で勝利を収めた。学校教育では神武天皇以下架空の天皇の名前の暗記が強制された。疑問を呈した歴史学者は不敬罪の咎で裁判所で有罪判決を下され、思想犯罪者となったのである。そしてその最終的結果は体制の破滅であった-
こうした国学とより原始的な神道の神々、仏教の仏と幻想的な極楽世界、キリスト教の神学教説等々、宗教・迷信に対し、山片は100頁以上にわたって矛盾を並べ立てた。そして正体暴露的に非難を加え、全て「ミナ愚ナリ」と完全否定した。中でも近世最も有力だった仏教に対して詳細な否定的分析を行っている。その論考はやがて半世紀前の富永仲基のパターンにますます近づいていった。
富永と異なり儒学の正統性を確信していた山片は儒学四書の一つ「中庸」の中の鬼神祭祀に言及する。懐徳堂の奉ずる朱子学の創始者、朱子は鬼神とは陰陽2気であると見、自らの宇宙論と結び付け鬼神祭祀を正当化した。これに対して山片は「中庸」の文中にある如(ごとし)という単語に注目し、この鬼神は例えに過ぎず本当は古代の人間もそんな物が実在するなど信じていなかったのだと主張した。古代の聖人は自然の理に基づき、亡き先祖を悼む人情に従って鬼神を祭る教えを立てた。しかし当時は宇宙や世界に対する知見が未発達だったために鬼神などという概念を用いたに過ぎない。人間の学問と認識は進化してゆく。古代中国の聖人がもし現代に生まれていたならやはり自分同様無鬼を説くだろう。仏教や神道はそれぞれありもしない神々を私的にでっちあげて崇拝しており、その教義によって天下を治めるには不適当である。儒学こそが天下を治める正統な道である。儒学は仁(同情心)と義(公正)を教え、他者や事物に対する真実を把握する洞察力を与えるだろう。
「夢の代」には懐徳堂とその周辺で論じられていた知見を包括的に統合し、従来の儒学を基礎に山片の地動説と無神論によって演繹した著作であった。それらは完全に18世紀の言葉で書かれていたのだが、全ての傑出した芸術や学問と同様、不朽のある種の予言的な色調を示していた。
<懐徳堂の終焉>
山片の死後、懐徳堂から傑出した学舎を輩出することは無かった。1868年、元号が慶応から明治に変わったその年に懐徳堂は閉鎖された。20世紀に入って一時復興するものの、戦災で焼失し残った蔵書は大阪大学へ移管された。
山片が率いていた本両替商、升屋は幕藩体制と共に破綻し、残余資産は地域の小学校建設に寄贈された。20世紀末地域の人口減少に伴いこの愛日小学校もまた閉鎖、破壊されたが、山片個人の蔵書は今日もなお後継の開平小学校で保管されている。
<結び-懐徳堂と近世大阪>
近世後期の懐徳堂の業績は所謂元禄文化や、幕末-明治期に完成を見た文楽人形浄瑠璃に代表される「上方」演芸と並び近世大阪が生んだ主要な文化事業であった。
ルネサンス文化が中世末フィレンツェ抜きに考えられないのと同様、懐徳堂の思想と近世大阪とは不可分な関係にある。ルネサンス文化が主にフィレンツェの富豪メディチ家に負うていたのに対し、懐徳堂を支持していたのは主に大阪の本両替商であった。幕府によって意図的に集積され、個人ではなく階級として寛容された彼らは、その富と影響力において全国の商人階級の頂点に位置していた。それに類比しうるもう一つの頂点は三井越後屋に代表される京都の呉服商であった。京都の呉服商は図案の供給源としての絵師を庇護し、それが近世-近代京都画壇を形成した。大阪の本両替商の場合扱う商品自体に実体がなく、経済は政治と必然的に不可分であったから彼らの関心は政治思想-儒学へ傾倒した。しかし古代中国に由来する伝統的儒学では貨幣経済の到来とそれに伴う封建制の暫時的崩壊に対応できなかったため、懐徳堂は新しい思想を生み出さなくてはならなかった。彼らは生業の金融業務に対する態度と同様、学問に対して厳格に理性的かつ合理的に挑んだ。
生まれではなく能力と競争でのし上がり、強力な社会的影響力を行使しながら、崩壊し行く封建世界の中で最も卑しい身分にあり、体制と不可分であったために滅んだこの階級は物質ではなく精神の世界でその壮麗な墓標を築き上げた。懐徳堂記念碑は近世大阪商人階級の墓標にふさわしい。
<参考図書>
自由学問都市大坂―懐徳堂と日本的理性の誕生(2002年) 宮川康子
懐徳堂―18世紀日本の「徳」の諸相(1992年)テツオ・ナジタ
大阪の町人と学問(1922年)内藤 湖南
大阪の町人学者富永仲基(1925年)内藤 湖南
山片蟠桃について(1921年)内藤 湖南
日生、懐徳堂共に鴻池が設立、発展に関与している。
アールデコ化されたロマネスク様式の美しい校舎。
近代大阪の公共建築の大部分と同様、市民の寄付によって建てられた。これ以前は愛珠幼稚園と同様式の木造御殿建築であった。
近代建築廃校舎を公共施設としてリノベーションしている京都市とか東京都(笑)の例を見習えと言いたいが、大阪市役所はさらに強烈に馬鹿なので無理だろう。
何も無いほうがましである。