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2022年 02月 13日
田中覚右衛門邸(田中本陣) 竣工年:主屋/17世紀後期築-19世紀増改築 玄関・座敷棟/安政2年(1855)表門/明治10年(1877)以降 備窮蔵/文政6年(1823) 設計施工:不詳 泉大津市助松町の旧紀州街道沿いに近隣8ヶ村を支配した大庄屋、田中覚右衛門邸がある。 近世日本経済の中心であった大阪近郊農村の多くは農工商兼業であり相対的に生産性が高かった。それらを支配していた庄屋建築はその圧倒的な富の優越性から、御殿まがいの巨大で豪華な代物が多く瞠目に値する。中でも田中覚右衛門邸は都市郊外の住宅街にありながら広さ1町(約3,000坪‼)を誇っており、大阪・畿内に現存する近世-近代邸宅としては屈指の巨大さでファサードだけでも一見の価値がある。 田中家は畿内の多くの大庄屋同様、近世に帰農した中世武家である。 清和源氏・新田家の流れを汲む上野国(現 群馬県)の戦国武将、田中遠江守重景が元亀年間(1570~73年頃)に助松に陣屋を構えたのが始まりとされる。 田中重景は1576年に織田信長の石山本願寺(現 大阪城)攻めに参陣し、江戸時代に帰農して大庄屋となった。かつての戦国武将の陣屋であると同時に、紀州徳川家が参勤交代の際に宿泊するための本陣であるので式台玄関・上段の間・庭園・長屋門を備えた。加えて府内屈指の広さを持つ土間や、飢饉に備えて食糧を保管した備窮蔵など庄屋建築としての施設も設けられているというが、現役の邸宅であるため内部非公開。 田中家の近所にある庄屋建築。 恐らく田中家の分家筋であろう。 長大な白壁+重厚な本瓦葺き+松の植え込みがありし日の大阪・中之島の諸藩蔵屋敷長屋門を彷彿とさせる、いかにも大阪近郊の近世建築。 大阪・中之島の久留米藩蔵屋敷(1867)。 同上 修復が必要。 現れた田中覚右衛門邸 予想外の巨大さである。無茶苦茶でかい! 大正期-昭和初期あたりに建造されたであろう御影石の門。 恐らく当主が自家用車で乗り付けたのであろう。 長屋門。 明治10年(1877)火事で焼けた後再建されたもので、これも近代建築である。 どこまでも続く長大な築地塀。近世の築。 これは一応農家建築に分類されるのだろうが、元々古い戦国武将の陣屋であり 並みの武士よりも家格も経済力も遥かに上であったことは明らかである。 泉大津地方は近世、綿花産業で富を蓄積した。 生垣より邸宅を望む。 これほど広大な植え込みをきっちり管理しているのが凄い。 地価の高い都市近郊の大庄屋建築は取り壊されるか相続の際、自治体に物納される運命を辿るものだが、田中家は現役バリバリの大富豪なのだろう。 GHQの農地改革以前に既に農地が市街化していて没収を免れたのかもしれない。 裏の塀は戦後のコンクリート建築 離れ。 一見煙り出しっぽい屋根もあるにはあるが これはそれほど古くなさそうである。 敷地の一部が削れて駐車場となっているおかげで江戸前期に建造された主屋が見える。 ここが無ければ塀で何も見えません(笑) 内部非公開。 田中家主屋。 摂津や河内とは微妙に異なる泉州独特の大味な意匠。 (日本の家Ⅰ近畿 2004 講談社より) 田中家内部。 典型的な大阪近郊の豪農建築の洗練された意匠である。 助松が町場となるきっかけとなった 1542年開基の浄土真宗大谷派・助松御堂。 田中家が上野国(現 群馬県)から移り住む30年前の開基である。 開基者は下剋上で有名な三好家の元戦国武将三好長圓。 三好は助松浜の地10町歩余を開墾し助松御堂を創建、やがて周辺に村をなすに至ったという。 要するに助松町は戦国時代、元武士の僧侶によって開かれた旧寺内町なのだろう。 近世には巨大な伽藍を誇ったらしいが、現状は小さな寺院。 こちらは浄土宗の専称寺。 RC造の助松御堂と異なり恐らく近世建築である。 紀州街道の平屋の町家。 泉州独特の二重屋根である。 レンガ敷の入り口 同上。 こちらはツシ二階がある。 古い道しるべ。 こちらは長屋門を有する農家風建築。 助松神社。 こちらは助松御堂よりも遥かに古く、奈良時代、女帝称徳天皇(在位:764年-770年)の時代に創建され、鎌倉時代には菅原道真が合祀された。 当代の宮司が鶏好きで天然記念物の神鶏が飼われているとの事。 この天然記念物の品種、値段を調べるとペアで9,000円程度との事。 意外に安い。 放し飼いで健康的。 拝殿。 恐らく近世-近代建築。 南海電車北助松駅。 近代建築っぽい意匠だが昭和32年(1957)の開業なので戦後建築。 <おまけ 高石の豪農?建築> 北助松駅の隣の高石駅前にも大きな和風建築が電車から見えたので降りてみた。 隣の駅だが泉大津市ではなく高石市となる。 隣の駅なので当然だが助松町と似たような感じの長屋門。 同上。 同上。 同上。
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by kfschinkel
| 2022-02-13 18:24
| 和泉国(堺市、岸和田市等)
2021年 12月 11日
竣工年:昭和6年(1931) 設計:大阪府内務部営繕課 恐らく旧制大阪帝国大学(現 阪大)現存唯一の遺構。 大正8年(1919)阪急電鉄より日本初の公立大学たる旧制大阪府立医大に待兼山一帯の土地が寄付され、予科(現 大学教養課程)が大阪市内から当地に移転した。 同敷地内に建てられた旧制大阪医科大学の脳病院。今でいう精神病院である。 竣工年の1931年旧制大阪医科大学は大阪帝国大学医学部となった。帝大昇格に伴い予科は廃止され、事実上の後継校として大阪府立旧制浪速高等学校が設置されている。 スタイルは様式装飾の無い水平線を強調したアールデコ。大阪帝大の他の校舎も同様で、歴史的様式装飾の濃密な先発の7つの帝国大学(東京・京都・東北・九州・北海道・京城・台北)校舎とは対照的である。学部は医・理・工の理系学部のみであった。医学部と工学部は前身の旧制大阪医科大学と旧制大阪工業大学(どちらも新制私立同名校とは無関係)の校舎をそのまま使用している。 三階が旧入院病棟であり、窓に手摺が残る。 <近代の脳病院> 皆さんは本物の精神病者、つまりきちがいと身近に接したことがあるだろうか?個人的に昔、身内が病気になって(薬でなんとかなったが・・・・中々自分からは薬を飲みませんよ、彼ら)往生した経験から言わせてもらうと、患者の家族は本当にたまらない。 近世においては精神病者は役所に願い出て自宅に閉じ込めるか、家族が手に負えない場合は拘置所や非人の保護施設「溜」へ預けられた。 近代に入ると「精神病者監護法」(1900)「精神病院法」(1919)が制定された。前者は所謂座敷牢、後者は脳病院について規定している。 精神病者監護法は警察に代わって精神病者を家族が自宅内の座敷牢へ拘禁する事を許可する法律である。座敷牢の悲惨な状態を東京帝大の呉秀三が批判し、精神病院法は制定されたものの、精神病者監護法は廃止されず、大阪帝大病院石橋分院が開院した昭和7年の段階で座敷牢被拘禁者と脳病院入院者の比率は半々であった。 都市部の富裕層患者は脳病院に入院する事ができた。しかしその治療内容は安静にするとか、作業療法とか、あるいは劇薬や麻酔薬、電気ショックを用いた拷問まがいの対処療法に過ぎなかった。 戦争が始まると、国家の足手まといの精神病者は真っ先に切り捨てられた。食料配給を受けられず入院患者達は緩慢に餓死していったのである。大阪帝大病院石橋分院も大戦末期1944年に閉院している。 統合失調症に効果を示す抗精神病薬の出現は1952年まで待たなくてはならなかった。 研ぎ出しの床もめっきり見なくなった。 ヌルっとした曲線の意匠は暴れる精神病患者がケガをしないように用いた配慮。 ユーゲントシュティール建築の代表作、オットーワーグナーのシュタインホーフ精神病院付属教会(ウィーン 1907)にも同様の工夫が見られる。 先発の帝大病院と比較すると、予算は決して多くは無かったのかもしれないが、座敷牢に代わる新しい精神医療施設への意気込みが感じられる。 階段の幅が狭くなっている点に注目。 おそらく錯乱した精神病患者が異常な力を出して暴れて走り回るのを踊り場で取り押さえるためであろう。 この大変さは実際に介助した事のある者にしかわからない。 石橋分院同様量塊を積み上げたアールデコである。 旧制大阪医科大学校舎を流用。 モダニズム風に簡略化されたゴシック様式。 水平線を強調したモダニズム建築。 この旧制大阪工業大学は帝大昇格前 東工大と並ぶ名門官立工大であった。 医学部と元々異なる大学同士の合併だが建物の雰囲気は似ている。 堂島にあった大阪帝国大学微生物病研究所。 やはりモダニズム建築。 右下は設立資金20万円を寄贈した洋反物商、山口玄洞。 東大や京大とは異なり大阪帝国大学は全額市民の寄付によって開学している。 現在は全くそうではないと思うが、近世-近代においては大阪は確かに商人の街であった。 理学部研究室の本棚。 懐かしい雰囲気である。 世界最初の汎用電子式コンピュータENIACの影響を受けて作られた、日本最初期のコンピューターである。 怪しげな骨董が多数展示。 湯川秀樹が中間子の存在を予言したのも大阪帝大時代であり 中心は地球ではなく太陽である。 懐かしい。 阪大はこういう古典的な植物学の研究をやっているイメージは余りないが・・・・ これは中之島の蔵屋敷跡から発掘された江戸後期の伊万里焼。 すばらしい。 近所の巨大な町家風農家。 近代の阪急による宅地開発によって富を蓄積した庄屋建築だろう。 親戚らしい。 #
by kfschinkel
| 2021-12-11 17:53
| 阪神間・北摂
2021年 12月 05日
富田熊作邸(現猪名川町立静思館)(※兵庫県猪名川町) 竣工年:昭和10年(1935) 設計施工:斎藤宗太郎 大阪の古美術商社、山中商会ロンドン支店長を長年務めた古美術商、富田熊作の住宅兼迎賓館。 ロンドンのデイヴィットコレクションや大阪の安宅コレクションと並ぶ世界最高峰の中国陶磁器コレクション、ジュネーブのバウアーコレクションは彼が扱った。 山中商会社長の山中定次郎の別荘、桜鶴苑(1915 京都・南禅寺)がよくあるコテコテの近代数寄屋建築なのに対して、こちらは一見農家風。しかし門と屋敷のバランスや意匠、材料など、古民家を見慣れた人が見れば異質な建造物であるのが判るだろう。 これは京都の大工棟梁、斎藤宗太郎によって全国の銘木を用い、3年の歳月をかけて建造された農家風邸宅である。数寄屋建築でも茅葺の東屋の様な物はよくあるが、こちらは数寄屋よりは農家に寄せた意匠である。しかし北摂地方の農家の特色はすっ飛ばされ、奇妙な雰囲気がある。水洗トイレや床暖房など近代技術を設備に用いている点は他の近代和風建築と共通する。 村年間予算の倍以上、10万円を投じて故郷に建造された、世界的美術商によるユニークなこだわりの近代和風建築。 <山中商会> 20世紀前半、唐物商の集積する大阪高麗橋に本社を置き、ロンドン、ニューヨーク、ボストン、シカゴなどに支店を出した、恐らく世界史上最大の古美術商社。 当初は日本の工芸品や骨董品をニューヨークやロンドンの支店で製造販売する会社であった。 大正6年(1917)北京店を開店。1912年の清王朝崩壊によって空前絶後の質と量の中国美術品が北京店にて買い取られ、これらを欧米へ売りさばいた。顧客は19世紀帝国主義と産業革命で富を蓄積した、イギリスのデイヴィット卿、ユーモルフォプロス卿、アメリカのロックフェラー、フリーア等の名だたるコレクターである。 第二次世界大戦により全資産の8割に当たる海外資産が没収。北京店は閉店。世界的古美術商社としての壮麗な歴史に幕を下ろした。 石造のエントランス。 照明からして竣工当時の物であろう。 アプローチと長屋門 本来道路に面して門があるはずである。 かなりの田舎であるため 大富豪のコレクターが自動車によって訪問する事を想定したプランであることは明らかである。 長屋門。 この様な巨大な長屋門はこの規模の茅葺農家ではまずない。 河内や吹田など大阪旧市街近郊の農商兼業大庄屋クラスである。 国際的古美術商としての富と威厳を示したのであろう。 母屋と蔵のファサード。 木部に赤い紅ガラが塗られている‼ 紅ガラを塗る習慣は京都や近江の町方の習慣で、摂津の農家でこれはあり得ない。 天満の大阪くらしの今昔館の船場の復元町家も京都の安井杢工務店が紅ガラを塗りたくっておかしくなっている。棟梁の斎藤宗太郎は京都の大工であり、京都人は紅ガラの赤が大好きなのだ。 主屋。 茅葺と瓦葺を組み合わせた典型的な畿内の妻入入母屋造でよくできている。 本来京町家や数寄屋建築に葺く様な一文字瓦が京都大工の仕事。 平面図。農家特有の田の字型。 土間。 なんぼでも予算があったのであるから広大な土地を買い占め、もっと権威主義的に太い松の梁をめぐらせた広い土間にすれば良いのでは?と思ったが、やはり美術商のセンスである。狭い空間に良質な素材を濃密に用いた空間を作りたかったのであろう。 へっついさん(かまど)。 へっついさんの上の福助さん。 張り出した水頭症の頭の形状から明らかに近世の作品で、この建物よりも遥かに古い。 富田熊作の主力商品は宮廷趣味の極みとも言える中国景徳鎮清朝官窯なのだが 本当に好きだったのは対極ともいえる日本の民芸品だったのかもしれない。 判らないのだが燻しまくって時代付けしたのではないかと思う。 夏のしつらえで簾戸。 欄間なども素朴なデザインをあえて使用している。 槍などの武具。 帰農した元武家という設定なのだろう。 銀箔で装飾された襖も渋い。 床の間。 簡素だが極めて上質な木材が使用されている。 床柱は恐らく最高級の北山杉。 繊細でしゅっとした切れる様なさり気ないセンスが京都である。 素晴らしい。床の間の明治期伊万里焼。 富田熊作クラスの美術商ならばこの様な量産の壺を床の間に置くことはなかっただろう。 書院の置かれた民芸品、見ざる、言わざる、聞かざるの三猿。 この三猿、起源は古代エジプトに遡る。 富田熊作は信仰心が篤く、縁起物を大切にする人物で、竣工当時十二支にちなんだ全ての動物が敷地内に並んでいたのだという。 書院板は恐らく紫檀。 お洒落な数寄屋風水洗トイレ。 村内では初めての水洗トイレらしい。 この便器は恐らく竣工当時のものではないかと思う。 吉野窓のある茶室。 富田熊作は鑑賞陶磁器屋で当時日本主流の茶道具屋ではないがやはり茶室がある。 小さく、プライベートなおもてなしであったのだろう。 茶室付属テラスとテーブル・椅子。 明治5年(1872)、日本最初の博覧会・京都博覧会開催の際、外国人の為の茶席として裏千家11代玄々斎が考案した立礼席に用いる。 正座の習慣の無い外国の顧客を茶道でもてなすための設え。 洒脱な茶室の引手。 萩釉である。 水屋。 茶室ファサード。 ここだけ見ると普通の数寄屋や町家に見える。 左下の巨大なやかんは何? 硝子戸のある縁側。 蔵を模した書斎、書斎蔵。 田舎っぽく見せようとするあまり、奇妙な意匠になっている。 本物の地元の蔵。 書斎蔵内部。 床暖房となっており香木を焚いたとの事。 別の蔵にあった富田熊作の肖像画。 実直で朴訥そうな人柄が伺える。 右は恐らくインド更紗。 主屋屋根 こじんまりとした庭。 長屋門前にある井戸の貯水槽。 偶然だろうが、安宅コレクションの鉄鋼商社、安宅産業取り扱いである。 巨大な朝鮮の石虎。 李氏朝鮮時代に王陵や墳墓の守護として置かれたもので、文人石、武人石、望柱石、石馬、石虎などと共に、円形の墓を守るように外向きに置かれていた。 王族クラスの巨大な墳墓から日本へもたらされたのであろう。山中商会同様、帝国主義時代の残滓である。 親族との記念写真。 やはりこの石虎がこの邸宅のシンボル。 貯水槽と石虎。 高台より望む。手前が富田邸。 恐らく戦前からほとんど変わらない風景であろう。 ド田舎である。 上方落語に「池田の猪買い」というのがあり、昔から北摂=ド田舎というイメージだったのだろうが、ボタン鍋屋などいかにも田舎臭い。 薪が売られている。 付近の豪農邸宅。 恐らく富田邸と同様近代の建築だと思うが、変種の近代和風建築とは異なる自然な造形。 <バウアーコレクション> スイス・ジュネーブの東洋陶磁コレクター、アルフレッド・バウアー(1865-1951)は1928年より1949年まで中国清朝官窯の名品を中心に約500点の東洋陶磁器を富田熊作より購入した。量はそれほど多くは無いが、その質は恐るべきものである。清王朝が崩壊して間が無く、名品がまだ市中に豊富に流通していた時代に、富田によって選び抜かれたコレクションである。再現は恐らく不可能。 (バウアー・コレクション中国陶磁名品展 出光美術館 1994 より) 中国建窯禾目天目茶碗 この種の中国の古い焼き物は大抵遺跡から発掘された発掘品だが、これは日本の大名、酒井家に伝わった伝世品。 典型的な清朝官窯。 絵付けが派手で茶道具や床飾りとして使えないため、日本には余り入っていない。 景徳鎮で素地が焼かれ、北京の宮廷で絵付けされた特別な焼き物、琺瑯彩。通称「古月軒」。 元々生産数が少なく、殆ど美術館に収まっており市場にはほぼ出ない。2015年のクリスティーズのオークションでは、古月軒の小さな椀が85,240,000HKD(約130億円‼)で落札された。 バウアーコレクションのアイコン、古月軒瓶。 #
by kfschinkel
| 2021-12-05 17:26
| 阪神間・北摂
2021年 11月 27日
大阪市立栄第一尋常高等小学校中央棟(後 大阪人権博物館 取り壊し)と旧摂津国穢多役人村(現 浪速区芦原橋周辺)の町並み 竣工年:昭和3年(1928) 設計:不詳 学区市民と地元大資本の寄付によって建造された大阪市立小学校。昭和初期、大阪市や京都市の様な富裕な大都市では、自治体ではなく学区内の市民や企業の寄付金を競わせて豪華なRC造校舎が建造された。 HSBC旧香港本店(1936)を想起させる官庁や大学の様な豪壮な白亜のアールデコ建築。この街の卓越した富と繁栄を築いたのは近世に始まり、近代に全盛を極めた皮革産業である。 大阪市により中央棟を除いて破壊。同和事業と称し、両翼に展示施設が建造され、政治団体、部落解放同盟と大阪府・大阪市が設立した財団へ大阪人権博物館として貸し出されていた。同和事業終了により財団は立ち退き、2021年完全に破壊された。
-摂津国穢多役人村の歴史- <近世-船場の飛び地として生まれて> 皮革業、処刑に関わる賤民、穢多は畿内では既に中世に記録にある。 豊臣秀吉は新たな城下町大阪を築いた。秀吉は恐らく一向宗排除の観点から、穢多の分散移住を強制。秀吉死後、船場・渡辺筋へ再集積後、当時の大阪市外、下難波村へ移転させたのが旧摂津国穢多役人村の起源である。この市外移転の原因は謎だが、恐らく当時の衛生政策の一環だったのだろう。屠殺後、剥いだ革を川の水にさらすと、強烈な腐敗臭を発する。穢(けがれ)が多い穢多、まさに字ずらそのものである。 数度の移転により、宝永3年(1706)今日の浪速区芦原橋周辺に穢多役人村は落ち着いた。 今日「被差別階級」として穢多非人という言葉がある。確かに関東において穢多と非人の境界は曖昧であったが、大阪においては明確な区別があった。
・穢多:世襲制。大阪三郷における犯罪者処罰処刑・死体片付け・消防・大阪城太鼓張替の義務。皮革産業従事・糞尿汲み取り販売の特権。居住地区は穢多役人村1か所のみ。大坂町奉行所の支配。 ・非人:非世襲制or世襲。犯罪者逮捕・諜報活動の義務。成員は乞食、芸人、放浪者、肉体労働者、墓守、転び伴天連などの雑多な非社会分子。居住地区は非人村4か所。大坂町奉行所or各寺院の支配 非社会分子に警察権を与えるのは奇妙に感じられるが、似た者同士を捜査逮捕させるという合理的な治安対策である。世事見聞録(1816)によれば大阪の非人について「非人の類も上方筋はいづれも身上よく暮らし、…火付け・盗賊そのほか悪党を捜し出し、…権威を振り、…平人怖じ恐るる程の事なり」とある。明治に入ると彼らは警察に編入された。 つまり近世大阪の犯罪者は非人により逮捕後、大阪町奉行所へ連行、裁きを受け、穢多によって拷問、あるいは処刑され、ミナミ千日前で死体を晒されたのち埋葬されたのである。近世犯罪者の処遇は基本的に死刑と拷問と見せしめであり、人権や更生という意識は希薄であった。因みに京都では逮捕も穢多の仕事であった。彼らの職種も義務も地域によってバラバラである。 摂津国穢多役人村は大坂三郷から外れていたが、元あった船場同様、日本の皮革物流の中心となった。その皮革取扱い量は浅草弾左衛門が支配する江戸最大の穢多村、浅草新町の実に10倍、人口は5倍の最大約5000人に達した。中でも江戸後期、穢多役人村最大の豪商は太鼓屋(岩田)又兵衛家であり、その資産は70万両、現在の価値にして350億円に上ったという。それに次ぐ豪商は数十人に上った。 皮革産業の興隆は周辺地域からの人口流入をもたらした。大坂町奉行所へは他所からの穢多役人村移住許可願いが多数記録されている。建前として犯罪者の処刑拷問や死体の処理の義務を負い、製造時に悪臭を放つ皮革や糞便で生計を得る賤民の村なのかもしれないが、実態は大坂三郷と同様、物資と人の出入りの激しい繁華な商工業地であったのだろう。地元住民は自らの街をルーツの船場渡辺筋にちなんでか「渡辺村」、あるいは単に「船場町」と称していた。
<近代-膨張する富> 幕府が倒れると明治政府は武士同様、穢多の世襲特権を廃止。刑罰執行と消防は穢多に代わり刑務官と消防署が担う事となった。 しかし摂津国穢多役人村は大阪市西浜町と名を変え更なる発展を遂げることとなる。新政府の富国強兵政策により皮革の需要が爆発的に増大する一方、近世日本の皮革流通の中心であった西浜町には新たに朝鮮・中国から大量の皮革が流入した。近世莫大な富と取引ノウハウを蓄積した太鼓屋(岩田)又兵衛や播磨屋(合坂)五兵衛、住吉屋(前田)勘兵衛の様な旧穢多の皮革問屋が、この巨大な新興市場に信用を付与し、円滑な流通システムを構築したのである。
明治23年(1890年)第1回帝国議会選挙では自由民権運動家、中江兆民が大阪4区より出馬、旧穢多の代表候補であることを宣伝し、1位当選を果たした。 当時華族・高額納税者男子のみが投票権を有し、その数は全国民のわずか1%に過ぎなかった。明治期、西浜町に如何に富裕な旧穢多が多かったかを示している。
近代西浜町の皮革工業の大立役者は二人の近代資本家、藤田伝三郎と新田長次郎である。 長州出身の藤田伝三郎は西浜町に程近い難波村に巨大な軍靴工場を建てた。近代軍制により革靴が帝国の必需品となったのである。長州閥の政商藤田は軍靴注文を独占し、革靴で儲けた資本を紡績、建設、鉄道、電力、鉱業、マスコミへ投資して、巨大財閥を形成した。晩年には男爵位を受爵している。 藤田の軍靴工場で近代皮革技術を学んだ新田長次郎は近代日本最大の産業であった紡績業の紡織機の動力源を伝える革ベルト製造工場を建設。やはり日本屈指の大富豪となっている。1928年栄第一小学校建造の際には新田の多額の寄付があった。
全国各地の旧穢多村が明治以降没落・消滅していく中、西浜町の皮革産業は新しい富国強兵の国策に沿った近代資本転換に成功した。
一方で旧穢多村の格差も鮮明になる。 近世、皮革を生業とする者は富める豪商も貧しい職人も等しく、幕府から特権と義務を与えられた賤民、穢多であり、穢多村に住んだ。 対して藤田男爵や新田は、先祖の身分や扱う商品が一体何であろうと、自他共に認めるジェントルマンであった。市内の一等地や阪神間に巨大な邸宅・別荘を構え、多額の公的寄付を行い、華麗なる近代ブルジョワ社会の主要な名士となったのである。歴史書には残らない無数の西浜町の資産家や市民もそれに続いていったことは容易に想像できる。 彼らはもはや賤民である義務も利益もなかった。 一方近代になって西浜町の周辺へ移住し、皮革工場や食肉工場へ雇用された大量の労働者たちは取り残された。
1930年代以降、I.G.ファルベンやデュポンなどの独米巨大化学産業が天然皮革に代わる新たな合成素材を開発しつつあった。
1945年3月の大阪大空襲は近世以来の伝統ある西浜町を焼け野原にした。
旧穢多を祖先にもつ人々を含む旧住民は四散し、焼け跡にスラムが形成された。 近世の古き穢多役人村の記憶は薄れ、皮革産業の重要性は低下し、「被差別部落」という神話が生まれようとしていた。
<戦後-虚構と暴力と終焉> 今日我々が「被差別部落」に対して抱く、論理破綻した人権理論を高吟しながら、役所や企業へ集団で押しかけ暴力で恫喝し、脱税、恐喝、公務員の裏口採用、公共事業の利権獲得等を行う反社会的集団というイメージは、部落解放運動政治団体の中でも最大の団体、部落解放同盟の活動による所が大きい。 治安維持の成員であった近世の穢多が見れば何とも奇妙に見えただろうが、戦前の全国水平社の後継団体の一つである部落解放同盟の父と称される男、松本治一郎は福岡の暴力団組長であった。彼らは生業である犯罪稼業と社会運動を融合させたのである。 被差別者であることを名目に集団暴力で恫喝する運動は、北朝鮮系在日朝鮮人団体、朝鮮総連と類似している。しかし北朝鮮がどれほど残忍な犯罪国家で、パチンコ産業などで得られた金と暴力で汚染された集団であったとしても、朝鮮総連にはなお朝鮮民族の民族団体であるという事実が残る。 部落解放同盟にはそうした事実が欠落していた。沈滞した地方の農村枝郷はともかく、部落解放同盟運動の本拠たる大阪や京都、広島、福岡など西日本大都市の「被差別部落」の住民の殆どは旧穢多ではあり得ない。なぜなら近世、余りにも穢多村は小さく人口も少なかったから。実際には彼らの殆どが幕藩体制が崩壊し、国内移動が自由化され、産業が発達し、都市人口が膨張した近代に入って、農村から職を求めてやってきた単なる移住者とその子孫だったのだ。
マルクス主義から剽窃した階級闘争史観(万国労働者は平等であるというテーゼに反しているのだが)とスラム特有の反社会的組織暴力が組み合わさり、かつて穢多非人身分であったという偽の歴史で武装された「社会運動」は、戦後社会を怒れる謎の賤民集団への恐怖、偏見、あるいは同情・共感の渦に巻き込んだ。
1969年、同和対策事業特別措置法が成立。国家予算から毎年巨額の税金が同和公共事業に注ぎ込まれた。根拠不明のあぶく銭を差配したのは、あろうことか単なる一政治団体に過ぎない部落解放同盟であった。高度成長と共に予算と利権は膨張していった。莫大なカネが闇社会へと消えた。
近世最大の旧穢多村にして、付近に旧全国水平社の本部が置かれていた旧西浜町は恐らく日本最大規模の同和事業が行われた。かつて多くの地元市民や資本家の厚意と寄付によって建造された大阪市立栄小学校は大部分破壊され、部落解放同盟のプロパガンダ機関、大阪人権博物館となった。全国の教職員や子供たちが、人権学習と称してこのプロパガンダ機関への聖地巡礼を強制された。建造・運営予算の原資は大阪市と府の補助金であった。
虚妄のバブルはいずれ自壊する。部落解放同盟幹部による恐喝・脱税・横領・詐欺などの犯罪事件が相次いで発覚し、2002年同和事業は停止された。
今日、旧穢多役人村には浪速神社を除いて、かつて大阪の街の治安維持と防火、衛生を担い、近代日本の活気ある皮革産業の中心であった過去の面影は殆どない。 同和事業によって建造された閑散とした巨大市営団地群と、グロテスクな人権オブジェ、借主を失い廃墟と化した公共建築が残る。 <参考資料> 大阪渡辺村の発生期について : 歴史研究への絵地図史料の使用意義に触れつつ 2020年 上杉聰 近世上方における賤民支配の成立 1969年 中澤 巷一 小林 宏 近世大坂と被差別民社会 清文堂出版 2015年 寺木 伸明 藪田 貫 youtube動画【解説】部落民と同和団体の関係 2021年 神奈川県人権啓発センター マーク・ラムザイヤー教授 『日本の被差別民政策と組織的犯罪:同和対策事業 終結の影響』 2021年 示現舎 食肉の帝王―同和と暴力で巨富を掴んだ男 講談社 2003年 溝口敦 同和と銀行 三菱東京UFJ“汚れ役”の黒い回顧録 講談社 2009年 森功 在りし日の大阪市立栄第一尋常高等小学校ジオラマ。 白黒写真を見ても豪壮な校舎であったことが判る。 京都国際マンガミュージアムの様にそのまま校舎を保存活用し、指定文化財に指定すべきであった。 同上。 中庭より中央棟を望む。 近世の革細工品 京都では革細工は元来穢多の仕事ではなかった。大阪では基本的に革の製造から加工、流通に至るまで穢多村で行われたらしい。この種の穢多と非人と一般人の役割の違いは各行政区画や藩によって見事にバラバラで調べると目がちかちかしてくる。京都は六条と天部に加えてそれに次ぐ穢多村が何か所も点在し、更に四座雑色なる中世以来の賤民役人が関与した。大阪は穢多役人村1か所のみである。 歴史の古い京都と異なり、大阪は幕府直轄の近世商業都市なので権利関係が単純かつ集中し、これが経済的な強さに繋がったのであろう。
太鼓の胴 銘の播磨屋源兵衛は恐らく職人本人の名前ではなく所属商家の屋号であろう。播磨屋源兵衛は穢多村北之町の皮革問屋で、幕末には北前船を仕立てて蝦夷地の皮革輸入を計画する程の豪商であった。
昭和初期の長者番付。 西浜町の皮革王、新田長次郎の資産は3000万円。 これは野村財閥(現 野村證券・りそな銀行・大阪ガスect.)総帥の野村徳七と同額であり、他の大阪の実業家では伊藤忠商事の伊藤忠兵衛は1000万円、朝日新聞創業者村山龍平が700万円、武田薬品工業の武田長兵衛が600万円である。 皮革産業が近代大阪に如何に巨万の富をもたらしたかが判るだろう。 近代日本の経済繁栄を支えた紡績機。革ベルトが用いられている。 (名古屋・トヨタ産業技術記念館) 近代の西浜町と周辺地図。 巨大な新田の工場が目立つ。 近世豪商の太鼓屋(岩田)又兵衛の敷地も大きい。
部落解放同盟の前身、水平社の旗。 全国水平社の本部は西浜町の近隣にあった。
アイヌのジオラマ。 少数民族アイヌと穢多を並列視する視点には違和感を感じる。 穢多は大和民族の成員であり、単に職業上かつて賤視されていたに過ぎない。近代大阪の西浜町に関しては、大富豪や華族を輩出するだけの富も、代表議員を帝国議会へ送り込む政治権力もあったのである。 アイヌの人々にはその様な機会はなかった。 暴動で殺された朝鮮人労働者の「差別戒名」が彫られた墓石。 戦前、土建ヤクザによって多数の朝鮮人が日本のタコ部屋に監禁され、鉄道やダムなどの建設に従事させられた。これは地元住民によって虐殺された朝鮮人労働者の墓石。通常6文字以上の戒名が4文字ということで差別戒名というのだが、むしろ施主が坊主にお布施をケチった結果に見える。朝鮮人だろうがアメリカ人だろうが彼らは金さえ積めば嬉々として院号を付けるだろう。関西人ならば判るだろうが坊主というのはそういうものなのだ。 北海道などでは未だにトンネル壁内に死体を塗り込まれた人骨が発見されるとの事で、墓を作られただけでもマシとすら言える。 無論大阪の旧穢多はこの様な悲惨な目にはあっていない。 解体される大阪人権博物館(2021年)。 大阪人権博物館を同地から退去させたのは第十九代大阪市長橋下徹である。 彼の父親は八尾の同和改良住宅に住みガス自殺した、部落解放同盟系水道工事業の暴力団員であった。 部落解放同盟最高幹部が館長を務めたこの博物館に良い印象を抱きようがないことは想像できるだろう。 2002年、国の同和事業を終了させたのも、京都の「被差別部落」出身という野中広務であった。 そもそも部落解放同盟の活動や主張を激しく公然と非難してきたのは、かつて全国水平社と親密関係にあった日本共産党である。 本来同志になりうるべき立場の人々によって反発・否定される現象こそが、この「同和問題」の異常性を示している。 跡地。 最初からヤクザ絡みの政治団体など噛まさず市立の歴史博物館として運営すべきであった。 どこか別の場所で新規開館予定という事だそうなので期待したい。
<旧摂津国穢多役人村の町並み> 写真では何の変哲もない集合住宅群に見えるが、とんでもない。 これだけ多数の戸数があるにも関わらず人気(ひとけ)が全く無いのだ。
300年の歴史と伝統のある街の痕跡が全くない。 南船場や島之内も旧西浜町同様空襲で焼け野原になったが、こんな状態にはなっていない。 町家や長屋や寺社は焼けても土蔵やRC造ビルは残っていたはずである。戦後街に戻った旧家の商人や住人もいただろう。 同和対策事業が数世紀の歴史と文化の蓄積を味噌も糞も一緒に完全に破壊したのである。 上にも書いたが、ここに住んでいる人の多くは穢多の子孫でも何でもない。 単なる市営住宅の住民に過ぎない。
夜の街の様子。 まるで北朝鮮の集合住宅の様に窓に明かりが付いていない。 至便な場所であるにもかかわらず、住みたいと思う人が少ない、あるいは住民の転入を排除しているのだろう。 同和対策事業の性格をよく示している。 旧摂津国穢多役人村中之町南之筋の太鼓屋(岩田)又兵衛家跡。 太鼓又は旧大阪三郷現存最大の町家、小西儀助商店を凌ぐ、間口12間の巨大な町家であった。 世事見聞録(1816)によれば 「上方筋は穢多の増長せし事にて、大坂渡辺の穢多に太鼓屋又兵衛といへるは、およそ七十万両ほどの分限にて、和漢の珍奇倉庫に充満し、奢侈大方ならず。美妾女も7,8人ありといふ。これに継ぎたるもの段々ありて豪福数十人あり。」とある。 和漢の珍奇というのは恐らく高価な茶道具であろう。穢多と茶道といえば戦国期には堺・舳松村の穢多豪商、武野紹鴎が茶人として名声を博していた。武野の師は公卿の三条西実隆、弟子には足利将軍家も含まれている。 古来より穢多は身分差別と貧困に苦しめられた等というのはウソである。どの身分にも金持ちと貧乏人がいたに過ぎない。 豪福数十人とあり、決して広くない穢多村に多くの豪商がひしめいていたことが判る。 近世の地図。(「近世大坂と被差別民社会」清文堂 より) 船場同様、十三間堀川などの運河に囲まれていた。 太鼓又の中之町は老舗の豪商が、北之町は播磨屋五兵衛や大和屋又兵衛といった新興豪商が覇を競っていた。
地域の神社、浪速神社。 一見立派な神社に見えるが・・・・
荒れ放題である。 寺社は大概まわっている口だが、都会の大きな神社でこんな管理の悪い、うら寂しい神社は他に見たことが無い。 神社ではないが旧穢多役人村は近世、京都西本願寺の求めに応じて度々巨額の献金を行っていた記録があり、近世-近代には絶対にこんな貧相な有様ではなかったと思う。 どうやらこの神社の敷地の一部もしくは全部が大阪市の所有らしい。 権利が複雑な物件は管理責任の所在が不明になり、荒れがちになるのは当然である。
1945年3月大阪大空襲の慰霊塔。 南無妙法蓮華経とあるので日蓮宗である。旧穢多ではない明治以降の新住民の為の碑であろう。 旧穢多役人村の穢多は村内の浄土真宗本願寺派(西本願寺)穢寺たる徳浄寺・正宣寺・阿弥陀寺・順正寺の檀家であったため、宗派が異なる。元々旧西浜町内にあったが、恐らく同和事業のせいで他所へ移転してしまい今は無い。畿内の場合、穢寺は殆ど浄土真宗本願寺派に属する。 JR駅名の元となった芦原橋親柱。 様式はゼツェッション、大正4年(1915)市電道路として架設。 西浜町を囲む運河、鼬川に掛かっていた橋。 鼬川は昭和期に埋め立てられたが、この芦原橋、実は南海電鉄汐見橋線下十三間橋梁として現存しているらしい(!) 忠魂碑 碑は大砲を、周囲の欄干は砲弾をかたどっている。
環状線の高架橋。閑散としている。
環状線の美しいトラス橋。
公共工事のおぞましい砂漠の様な芦原橋で唯一のオアシス、芦原橋駅前の太鼓店。正確には旧穢多役人村から外れているのだが、昭和6年西浜にて創業とあるので、同和事業によって戦後強制移転させられたのだろう。これからも末永く偉大な旧穢多村の産業を守り続けてほしい。 店先に展示された布団太鼓。 布団太鼓は大阪発祥、瀬戸内文化圏の神輿で、19世紀前半に現在の形になった。上の布団は神輿の神が祭りの間睡眠するためのものである。神さんの寝床という発想や、ふざけたデザインセンスが非常に大阪的。 近世、穢多村は船場・坐摩神社の氏子として認められず、お祭りの際、村を囲む十三間堀川の川端で布団太鼓を叩くのみであったが、近代に入り船乗り込みによる参加が許されたとの事。京都・崇仁の船鉾を想起させるエピソードである。 如何にも和太鼓っぽいセンスの厳ついハイエース。 売上高1.2兆円、国内首位、世界8位のミートパッカー、日本ハムのビル。日本ハムは現在西梅田に本社があるが、かつては旧穢多村に隣接する大国町に構えていた。 この様に食肉会社、皮革を用いるスポーツ用品企業の多くが大阪と周辺に本社を構えるのは近世穢多役人村あるいは近代西浜町の過去の栄光の残滓である。 しかし「被差別部落」=食肉というイメージがあるが、日本で食肉習慣が大々的に広まったのは明治以降なので後発産業である。1939年に津守で建造され戦後南港へ移転した大阪市立屠場の名残であろう。 在りし日の旧穢多村を彷彿とさせる太鼓屋や毛皮問屋、履物問屋が集中する大国町。 ここは近世単なる農村であり、穢多村でも何でもないのだが、近代以降、隣の西浜町の経済発展と膨張によって問屋街と化したのである。しかしここも同和事業の指定地区となっていたのだ。この役所による指定がいかに史実に基づかない恣意的な代物であったかが判るだろう。要するに大国町は補助金狙いででっち上げられた元ニセ部落である。大阪・京都にはこの種のニセ部落が沢山ある。 しかし異常な公共工事によってゴーストタウンと化した本物の旧穢多村よりもまだ商業地として往時の活気をよく伝えている。 大国町は近年その利便性から、府外からの引っ越し先として都心の人気エリアとなっている。 #
by kfschinkel
| 2021-11-27 19:29
| その他大阪市
2020年 07月 27日
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by kfschinkel
| 2020-07-27 18:48
| その他大阪市
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